マリスステラに唄う恋:序/prototype

 一次創作の原型となった二次創作の突発作品。リメイク版は改めて執筆しなおしますが、序盤の雰囲気だけでも掴んでみたい方はどうぞ。(初出:2020年7月28日)


 その夜は満月だけが、闇の中で厳かに輝いていた。
 淡い光を放つ真円は、この地上から見上げると、欠けも汚れもない純白さを一際目立たさせている。
 空に星は一つも見えない。
 月は、悦びに声を潜めて、俺を嘲笑っている。

 そんな夜に、君と出逢った。
 清廉な魂の持ち主だった。
 ーーこんな歪な世界で唯一、君だけが綺麗だった。
 止まっていた時が、その輝きを道標に、再び歩みを始める。
 思い出という箱に仕舞われた、記憶の中の君の姿は、宝石のごとき輝きを帯びたまま。
 俺は、君の姿を、魂を、在り方を。
 ーーたとえ終末の日に、この身が聖なる火に裁かれても、決して忘れはしない。

◼️

「……くそ」

 叩かれた頬がまだ痛む。冬の外気の刺すような冷たさが、いっそ心地良いくらいに。
 そんなオレは今現在、人気の無い公園のブランコに座って、呆然と空を見上げている。
 ここに腰を掛けると、町を囲むように佇む海と空を、同時に臨むことができるからだ。眺めること自体はこの町のどこからでも可能なのだが、ここからの眺めが一番綺麗に思える。オレのお気に入りの場所だ。
 天上は、よく晴れているくせに星は見えない。その分、白い満月がより綺麗に映える。海面に投影された姿もまた、波にその形を揺らめかせつつも、同じ神聖さを放つ。
 時刻は23時を過ぎていて、オレたちの歳なら普通、とっくに家で寛いでいる頃合いだけれど、このまま帰ろうという気分にはなれなかった。今頃、姉は玄関で弟の帰宅を今か今かと待ち構えているだろう。そう考えると、頬の痛みが一層強くなるのを感じた。

『子供の頃の夢なんて、いつまで引き摺っているの?もっと現実的なことを考えなさいよ!』

 家を飛び出す前に浴びせられた言葉が、耳から離れない。
 姉の意見は正論だと思う。そもそも彼女自身、自分が信じる道を進むのが得意な人種だ。その信念が潔癖すぎると思うときもあるけれど、オレはそんな彼女を尊敬している。
 今回の話はただ単に、オレと彼女の信じている道が、平行線だというだけのことなのだ。誰が悪いとか、そういう話じゃなく。
 
「……でも、そもそもさ」

 現実的って、何なんだよ。誰がその境界線を引いたのだろう。何をすれば正しいのだろう。どこまでが普通なのだろう?現実に則さないことは、いけないことなのか?
 ……到底、一生かかっても理解できる気はしない。
 オレは、自分の名前の由来した言葉の意味ですら、理解できない。これまで生きた歳月は短いけれども、なんとなく悟った。
 ーー誰しもが持つ当たり前の感情が、オレには欠けている、と。

 考え込むと、家を出た直後よりも気分が沈んでしまう。一人になりたいときはあるけれど、独りになるのは精神的に良くないことなのだと、嫌でも痛感する。『健全に生きるために、人には他者の存在が必要なのです。』、以前に家庭教師から聞いた言葉をこんな形で思い出すなんて。

 そろそろ、観念して帰るべきかな。小さくため息をついて、立ち上がろうとしたときだった。
 公園の入り口の街灯の下に、男が一人立っている。
 男の顔はよく見えないが、体の向きから察するに、こちらを眺めていたようだ。
 少しブカブカの黒いコートに、潮風にたなびかせる葡萄酒色のマフラー。髪の色は灯りのせいではっきりとはわからないが、何処と無くラピスラズリを連想させる。そう、フェルメールの絵画をそのまま切り取ったかのような。とすれば、その色はウルトラマリンブルーに近いだろうか。ぶっきらぼうに見えるわりに、纏う雰囲気はどことなくしなやかで、その佇まいは幻想的にすら感じられる。
 目が合ったまま、互いに微塵も動かない。オレの方は、その青い瞳に吸い込まれて石化したような気分だ。彼はどういうわけか、妖しげな笑みを浮かべたまま、じっとこちらから視線を外さないでいた。

「……」
「……」

 どうしよう、声をかけるべきか。でも、何て?
 オレの当惑ぶりが可笑しかったのか、男は少し声に出して笑った。その笑い方は悪戯っぽくもあったけれど、品の良さも感じる。
 男はゆっくりとオレの方に近付いてくる。状況的には身の危険も感じたけれど、不思議と逃げ出そうとは思わなかった。

「やあ、コンバンハ。月が綺麗な夜だな」

 親しい相手にでも話しかけるかのような、馴れ馴れしい挨拶。初対面に対してそれはどうなんだ、と思わなくもないけれど、嫌悪感は抱かない。

「こ、こんばんは」

 慌てて挨拶を返すも、声が上ずってしまう。緊張しているのか。もしかすると、未知の生物に出会ったときの人類の反応は、案外こんなものなのかもしれない。興奮よりも先に畏怖の念を抱く、そんな感じ。

「こんな夜遅くに、子供が一人じゃ危ないぞ。悪い大人に捕まったらどうするつもりなんだ?」

 男はいつの間にか、すぐ目の前に立っていた。手を伸ばせば届くほど近い。瞬間移動でもされた気分だ。実際は緊張のあまりにオレの時間の感覚が狂ってしまっただけなのだが。
 見上げると、彼の整った顔立ちがよくわかる。同性の自分から見ても綺麗な顔をしている。まるで彫刻のように芸術的で、どこか哀愁を漂わせる人だと、何故だかそう思った。

「……おい、もしもし。ちゃんと聞こえているか?」

 返事もせずに見とれていたオレに気を揉んだらしい。意識を確認するかのようにオレの目の前で手のひらを振る。

「あ、はい、大丈夫です。」
「そうか、それなら良かった。……待て、良くはないな。お前、結構ガキじゃないか。こんな人気の無い場所で何してるんだ?お巡りさんに補導されたかったのか?今時の若者は変わった性癖を持ってるなあ」
「そんな変な嗜好は欠片ひとつも無いですけど……」

 ……変わってるのはそちらの方では?という疑問は喉から出る前に飲み込んだ。いや、何だよ、性癖って。普通そんな言い回しはしないんじゃないか?
 とは言っても、事情を話さないわけにはいかない状況かもしれない。不良少年として通報されるのが一番困る。話しても理解されないかもしれないけれど、もし説得が通じる相手なら全力を尽くしたい。

「まあ、ちょっとさ、家に帰りたくなくて。天気も良いし、夜道をぶらぶらしていました。良くないことだとは分かってるんですけど、たまにしでかすと心が軽くなるものですね。もしかしたら人間は、嫌なことがあると、少しだけ悪いことをしたくなるように出来ている生き物なのかもしれないなあ、なんて」

 早口で突拍子もないことを言ってしまったかもしれない。吐き出すようにして言い終えた後に、「ああ、変なことを喋ってしまったかな?素直な感情を話すって難しいことだなあ。」と心の中でぼやいた。後悔と羞恥に苛まれる。大声をあげて、穴があったら入ってしまいそうなほどに。
 男は少し唖然とした後に、フムンと考える素振りを見せてから、尻ポケットから財布を取り出して小銭を数枚つまみ上げた。そしてそれをこちらに差し出すと、

「お小遣いだ。ま、これで飲み物でも買ってきなよ。愚痴の相手くらいならしてやるからさ」

 そう言って、ブランコの周りを柵のように囲む低い鉄棒に腰を掛け、コートのポケットから小さいタンブラーを取り出した。
 オレは自分の手のひらに置かれた硬貨に視線を落とす。銀色の硬貨が二枚、辺りの光を鈍く反射している。おずおずと男の方に視線を送ると、飲み物を啜りながら向こうの自販機を指差した。
 知らない人から奢ってもらうというのは、相手に対して申し訳無さを覚える。一瞬断ろうかとも考えたが、オレに対して親身になってくれる彼に悪い気がしたので、言われた通りに自販機に足を運んだ。
 安い小さな缶コーヒーを選び、釣り銭を回収する。それを返そうとすると、

「数十円だろ?いいよ、やるよ」

 と、固くお断りされてしまったので、仕方がなくスマートフォンのケースにしまう。その際に、姉からの着信が何件もかかっていたことに気付いたが、見て見ぬふりをした。
 再度ブランコに腰を下ろす。男とは少し距離をとって向かい合う形だ。こちらは見上げる形になるが、そんなことは構わなかった。

「で、だ。右の頬を赤く腫らした坊や。そんな暗い顔をして、彼女にこっぴどくやられでもしたかい?」

 男はおどけるように本題に入る。おちょくられているようで、普段なら腹が立つような言い回しだが、彼が相手だとそうはならないから不思議だ。
 何故だか、男は話しやすい相手に感じる。だからなのだろう、胸に抱えていたもの、平常心なら誰にも打ち明けないことですら、この人の前ではするすると言葉に出てしまう。

「彼女なんかじゃないですよ。姉です、父親は違うけれど」

 オレと姉のリンは年子の、種違いの姉弟だ。この家庭の事情を他人に話したのは初めてのことだった。
 今の父親は、オレと血が繋がった方にあたる。両親は共働きで家に帰ることは少ない。今日もオレとリン、二人で留守番して、一日を平穏に終わらせる、……はずだった。

「まだ先のことなのに、姉と進路の話になって。姉はオレが当然、父親と同じように医者になると思ってたみたいで……。でも、オレはそっちの道には興味が無いんです。昔から歌うことが好きで、だからせめて、音楽に関わりたいんですけど、姉からは猛反対されて……。それで口論になって、姉から一発食らっちゃって」

 話すにつれ、段々自分が情けなくなってきた。姉弟間の力関係を他人に明るみにすることは、こんなにいたたまれないことなのか。
 黙って話を聞いている男は、ただ静かに、じぃっとこちらを見つめていた。感情に動きはない。オレの告白をただただありのままに受け止めてくれているような、そんな風に感じられる。

「姉は、リンは……正しさを重んじる人だから。名前もね、倫理が由来なんです。モラルとか秩序とか、世間体を重んじる。だから、オレの夢も、現実的じゃないから、過ちを犯す前に止めてくれているとは思うんです。先の見えない道よりも、医者になって安定して稼げるような大人になれって。オレのことを考えてくれてのことだとは、分かっているけれど……。でもオレ、自分にも他人にも、嘘はつけない。子供じみた考えだって馬鹿にされても、正直でありたい。現実からも夢からも、目を背けたくない……です」

 途中から感傷的になったことを自覚して、凄く気恥ずかしくなった。頬の痛みは引いてきたのに、思わず顔が火照ったためにとても熱い。
 流石にこれは、笑われるのではないだろうか。大人からすれば下らないことに違いない。世間の大多数はリンの意見に賛同するだろう。
 恐る恐る表情を窺うとーー彼は静かにオレを見守っていた。馬鹿になんて微塵にもしていない。肌で感じるほどの厳威さをその身から放ち、そこに存在していた。

「その子はきっと、君と君の父親を愛しているんだな」

 言葉をそのままに受け取れば、聞くだけで恥ずかしくなるような台詞を、彼は淡々と述べる。不気味なほどに静静とした声色で。

「ま、まあ?家族仲は良い方ですし……。でも、愛なんてそんな、大袈裟な」
「純粋な家族愛だとするなら、まあ良いことじゃないか。だからって、お前が相手に遠慮する必要は無いと思うがな」
「え?」
「自分の信念や人格を他人に委ねるのは、正しくないと俺は思ってるのさ」
「えっと……」

 男の真意をいまいち掴め切れず、返す言葉に迷う。男は「そうだな……」と呟くと、また何かを考え始めた。この人は思案に耽る際に、右手の親指の腹を唇にあてる癖があるようだ。相手のそんな細かな仕草に気がいくのは、自分でも変な気分だ。
 やがて彼は自分の中に結論を見出だしたらしい。指を鳴らして、その流れでこちらを指差す。そして名案だと言わんばかりに、随分突飛なことを言い始めた。

「ちょっと、この場で歌ってみてくれないか」
「え、ええ?ここで!?」
「遅い時間だし、住宅街ってわけでもない。そんな大きな声量じゃなきゃ、誰にも聴こえやしねえよ」
「いや、昼間でも充分恥ずかしいですけど……」

 むしろ深夜の方が迷惑なのでは?
 そもそも、友人や身内相手に歌うのとは状況が違うのだ。こんな深夜の公園で、先程知り合ったばかりの、素性も知らない相手を前に、伴奏も無しに独唱だって?とても勇気の要る行いではなかろうか?
 渋るオレに、唇を尖らせる男は小さく手拍子を打ち始める。

「ほらほら、未来の大物歌手さん。こんなちっぽけなステージで気後れしてるんじゃねえよ。観客は俺だけだ、派手にかましてファンを満足させてみな」

 煽り台詞を吐いて微笑む彼は、そのままオレが歌うのを待っている。白く輝く月と街灯の光、彼の手が紡ぐ拍子の音だけが、今この瞬間、春の訪れを待ち望む世界を埋め尽くしている。そんな幻覚がオレの思考を満たしていく。
 闇夜に瞬く淡い光が、スポットライトのようで眩しい。ライブで感じる高揚に近いものを感じる。厳密に言えば、ここは深夜の公園の一角で、ライブハウスとは全く異なる空間だ。更に言えば、今この場では、オレが歌い手で、彼が観客。普段はオレがそちら側の住人で、こちら側の世界に憧れを抱いてきたのだ。
 そう考えると、この状況は何だか非現実染みている。もしかして何から何まで夢なんじゃないか?現実ではオレは口論の後に部屋に逃げ込んで、既に眠りについていて、微睡みの中で願望を叶えているのかな?
 だとすれば、ここで思い切り歌っても、誰も咎めはしない。だってここは夢の中なのだから。そうさ、考えてみればそっちの方が有り得ることだ。公園で知らない人に声をかけられ、優しく接してもらって、胸の内を吐露して、歌まで聴いてもらえるなんて。そんなことが一度に起きるわけがなかったんだ。少し考えてみれば、簡単に分かることじゃないか。
 だいぶ気が楽になった。立ち上がり、すぐ傍の街灯の下まで歩む。なんて質素なステージライトだろう。でも、今のオレには釣り合っているからこそ、夢にも反映されたんだろうな。オレの目指す道はまだ始まってすらいなかったのだから。

 観客に向き直る。男の姿を視界に捉えた。彼は手拍子を止め、穏やかな眼差しでオレを見つめていた。
 かつての世界とこの世界を、休止符で隔てた地点。そこにオレたちは立っている。ここに広がるのは無音の波間。続いてきた過去と未来を繋ぐ、今という名の交差点。

 口ずさむメロディは、今までで一番綺麗な出来映えだ。歌声も、自分でも聴いたことがないほどに力強く真っ直ぐで、自分が一番、音楽の神様の近くに居るのではと自負できるほどに、高らかに飛翔する。
 凄い、何もかもが別人じゃないか。オレの中からこんな歌声が出てくるなんて。まるで、魔法をかけられたみたいだ。
 そんな感激の中で、声が聞こえた。遠い遠い果ての場所で、オレの歌声を引き金に、明日という名の世界が上げた、歓喜の産声。惜しみもなく輝きを放ち、翼を広げるその姿を、垣間見たような気がした。

 ーーそうか、ようやくわかった。ずっと前から、世界は産まれたがっていたのだ。

 オレが自分に自信を持てなかったから、その生命が芽吹かなかっただけで。それは一つ欠けた四季という揺り篭で、夏の灼熱に焼かれ、秋の孤独を堪え忍び、冬の寒さに震えながら、忘れ去られた春の訪れを、ずっとずっと待っていたのだ。
 その場所は遥か彼方に見える。ここからは未だに遠い。けれど、そこにオレが探していたものがあるのかもしれない。オレが知りたいと願う、自分という存在に刻まれた、その名前の本当の意味も。

 気が付けば、とうに歌い終えていた。視界は酷く歪んでいて、両側の頬に一筋、焦がすような熱を感じる。今日は酷く晴れているのに、俯いた先のすぐ真下に広がる地面は、斑らに染みを作っていた。それを認識してようやく、オレは歌いながら泣いていたのだと理解した。

「良い歌だった、とても」

 彼の拍手と賛辞が、自分でも知らなかった渇きを潤していく。その率直さが、彼の心からの言葉であることを証明している。それが堪らなく嬉しい。不思議だ、勉強や運動で良い成績を取れて周りの大人に誉められたときより、胸に響く。
 ただ、男が人前でこんなに泣きじゃくるなんて、醜くないだろうか。慌てて手の甲で涙を拭う。

「みっともないところを見せて、すみませんでした」
「勿体無いな、その涙はとても綺麗だったのに」
「なんですか、それ」

 歌っていた時はあんなに透き通っていたのに、今じゃ声はガラガラだ。歌い終えたと同時にスイッチが切られたのだろうか?けれど男の返答がちょっと面白くて、笑いまで堪えられなくなる。本当に、こんなに良い気分なのは何時以来だろう?

「容姿も眩しかったけれど、魂も清らかだな。歌声によく表れていた。その金髪碧眼によく似合う。……ところで今の、ネットで流行っている曲だろう?歌詞は途中から全然違っていたけれども」
「あ、」

 言われてみれば、確かに。頭の中が別の次元にトリップしていて記憶が朧気だが、正確な歌詞を歌えるほど正気だっただろうか。

「うろ覚えってわけでも無さそうだった。あれ、知らず知らずのうちに自分の思っていることを口に出していただろう?」
「あ、はい……タブン、仰る通りデス……」

 賞賛と指摘を同時に浴びて、もうどんな反応をすればわからない。返答に困ることをさらっと言いのける人だ。大胆不敵なところもある。初めに感じた幻想的で儚げな印象とは大分かけはなれているが、それらが間違っているとは思えない。多分人間ってやつは複雑に出来ているものだから、色々な側面を内包した人なんだろう。

「今の出来事を忘れるなよ、それが素のお前自身で、お前の信念そのものだ」

 ーー本当に、この人は欲しかった言葉を与えてくれる。出来た人間だ。歳は若くて、多分成人してそんなに経過していないと思うのだけれど。どこか達観した言動をする。
 ただ、何故だろう。その振る舞いは何処と無く寂しげに感じる。危うげというか、繊細さを秘めているような……。
 オレの視線を痛いほど感じたのか、彼は頭を掻く。一口飲んでから立ち上がり、オレの服のポケットに何かを捩じ込んだ。怪訝に思いながら中身を確認すると、一万円札が一枚。

「チケット代。出来が良かったから、チップ付きな」
「い、いやいや!そんな、現金とか受け取れないんですけど!?」
「いいっていいって。若いんだから遠慮しなさんな。……どうせ俺にとっても、チップみたいなもんだったし」
「は?」
「こっちの話」

 誤魔化すように笑うと、彼は後ずさるようにして数歩分、オレと距離を取った。この距離という概念が、近くにいるはずの彼を遠く感じさせるのだから不思議だ。
 そのまま気の良い兄貴分のような振る舞いで、彼は手を振る。

「もう遅い時間だ、日付が変わる。送り狼に狙われる前に早く、おうちに帰りな」
「ちょ、ちょっと!」

 じゃあな、とその場から立ち去ろうとする彼に、慌てて声をかけた。彼は少し顔をしかめつつも、律儀にこちらを振り返ってくれた。
 ーーオレは何で呼び止めてしまったのだろう?……このまま別れて二度と会えないのが、酷く惜しいと思ったからだ。
ーー彼に何を伝えようとしたのだろう?……多分、自分が考えたことを、そのままに。

「本当に、本当にありがとうございました。貴方はオレの恩人です。オレの名前はレン。恋と書いて、レンって読みます。どうか貴方の名前を教えてください」

 時の流れが一瞬、凍てついたように静止した。いいや、違う。動き出した秒針が、オレたちだけをこの世界から切り離したかのように、遅く感じられただけだ。こういうの、クロノスタシスって言うんだっけ。
 男は目をパチクリさせて、オレを凝視する。こちらの真意を測ろうとしているらしい。沈黙したまま、また親指を唇にあてて、小さく笑みを浮かべた。

「カイト。モーセの十戒を、逆十字のように下から読んで、戒十。お前のと違って、酷いセンスだろう?」

 彼は自嘲気味に告げた。
 モーセの十戒は授業で聞いた覚えがあるが、逆十字、それが何を示すのかはわからない。けれど彼の言い様だけで、この人は自分の名前が嫌いなのだとは痛切に理解した。
 だからこそ、オレは本心をあるがままに伝える。一言一句、間違えないようにハキハキと。

「カイトさん、オレは貴方の名前を覚えます。忘れることはないです。だからまた、オレと会ってくれませんか。もっと貴方の話を聞きたいんだ」

 彼は狐につままれたとでも言わんばかりの表情でこちらを二度見三度見する。オレは自分の言ったことが気の迷いなんかじゃないと、そう相手に伝えんばかりに堂々とする。先程までとは立場が逆転したかのようでちょっと面白い。

「まるで口説いているようだ。将来は女に困らないな」
「そんなつもりは全く無いので、からかわないで下さいよ。もっと真摯に受け止めて欲しい」
「……お前さ、警戒心が薄すぎないか?こんな怪しい奴相手にさ。やめとけよ、大人なんて碌なもんじゃないぞ」
「貴方は……確かにちょっと変わってるし、なんか妖しいけど……、でも悪い人じゃない。大丈夫、それだけは確信してるんだ」

 考えたことをそのままの形で伝えてしまったためか、敬語も砕けてしまっている。それでも、胸に沸き上がった想いは、飾らない言葉で伝えたかった。この人は、そういう誠実さを求めている人なんじゃないかって、そう思えたから。
 彼はやがて降参とでも言わんばかりに、肩を竦めて、苦味を堪えるように笑った。

「今度またここで出逢えたら、その時は一緒に歌おうか」

◼️

「ただいまー」
「遅い!」

 玄関の扉を開けた瞬間、こちらに向かって飛んでくるスリッパが見えたので、慌てて扉を閉める。いっそ小気味良いほど高らかな音が止んで暫くしてから、恐る恐る扉を開き直す。

「お、そ、い!」

 そこには案の定、姉がしゃがみこんでいた。狭い廊下の壁に背中を預けて、膨れっ面でこちらを睨んでいる。よく見ると少し涙目だ。

「ごめんって」
「誠意が感じられない!」
「いや、本当に悪いと思ってる。遅くなった。心配したよな」

 誠意を感じないとリンは言うが、それもまあ、この場に合わせた台詞に過ぎないと、付き合いの長いオレは知っている。彼女は意外と演技派で、台本のようなやり取りを好ましく思うようだ。
 オレの方といえば、実際、本当に悪いことをしたと思っているから、こうして心から謝罪しているのだ。思ってもいないことは、嘘でも言えない。そんな困った弟の性格も、彼女は分かってくれている。要は、姉は普段の仕返しに、オレを困らせたいだけなのだ。

「……もしかして、ずっとここで待ってた?」
「待ってたわよ、心配しすぎて外まで探しに行こうと思った」
「それは流石に良くないと思うな。女の子がこんな時間に一人で散歩とか、変質者に会ったらどうするのさ」
「同じことを!私も、心配してたのよ!」
「オレ一応男なんだけど……」
「世間には!男でも問題ないって言ってのけちゃう人間が!沢山居るのよ!」

 彼女は目を赤くして、手に持ったもう一足のスリッパで壁をバンバン叩いている。これ、食らってたら間違いなく痣になるな。怒りをぶつける矛先が壁で良かったって、ちょっと思ってる。壁さんには非常に申し訳無いけども。

「……もう一度謝って」
「ごめん」
「うん、じゃあ許す。こっちこそ、さっきは平手打ちしてごめんなさい」
「いいよ、気にしてない。外の空気が冷たくてすっかり治ったよ」 

 お互い、相手に誠実に謝罪して。とりあえず感情面では片がついた。問題は、先程まで議論していた話題についてだ。

「……」
「……」

 やはりその話題をもう一度切り出すのは、互いに躊躇いがあるようだ。オレもリンも、告げる言葉を探してる。

「……あの、さ」

 言葉が見つからないからって、何も言わないわけにはいかない。意を決して、自分が考えていることを素直にぶつけようと思えた。あの人の言葉から勇気を貰ったから、怖くはない。

「オレ、やっぱり歌いたい。将来どうするかなんてわからないけれど、何かしらの形で、歌う道も選ぶ。ちゃんと周りの人の言葉に耳も傾けて、考えて、その上でオレの信じる夢も叶えるようにする。勿論、リンの言う道も、しっかり考える。
 ……もっと積極的に、他人のことを知りたいと思ったんだ。それで、沢山の人から貰うものに対して、オレはオレの信念で返そうって、そう決めたんだ」

 人には他者が必要なんだ。自分の傷を理解するために。寒さに凍えてしまうような孤独な人生でも、生きていくために。
 あの人のように、他人の傷に気付ける人間になりたい。そうして、苦しんでいる誰かに、何かしらの支えやきっかけを与えられる人間になりたい。
 リンは痛みを堪えるように、自分の体を抱き締めている。オレの想いは、彼女に届いたのだろうか。平手打ちすら覚悟して、応えを待つ。

「……レン、本気なのね。私は歌なんて、ちっとも好きじゃないけれど。でも、ちゃんと私の話も考えてくれるって言ってくれた。今はそれで充分」
「うん、まあ、先の長い人生だからね。気長に見守ってて欲しいかな」
「言っとくけど、進路についての猶予なんて2年くらいしか無いんだからね。中高一貫の進学校なんだから尚更よ」
「分かってるよ。それまでには、ちゃんと答えを見つけるさ」

 リンは声に出して大きくため息をつく。そしてじっと、オレの意中を探るように顔を覗き込んだ。

「なんか、たった1、2時間で、すっかり大人っぽくなったじゃない。一皮剥けたっていうかさ。凄くスッキリした顔してるわよ」

 なかなか鋭いな。女性の直感というものだろうか。やましいことなんてしていないのに、ちょっとドキドキしてしまう。

「そうだね。本当に良い人だったよ。今日の家出は運が良かった」
「……え?」

 僕の言葉にリンの表情が険しくなる。気付いたときには、しまったと、己の性分を悔やんだ。まったく、嘘をつけないというのは良いことなのか悪いことなのか。余計なことばかり口を滑らせ、こうしてまた無用で不穏な種を撒き散らす。

「どういうこと?誰かと会ってたの?」
「うん、まあ」
「知り合い?」
「違う、知らない男の人。凄く格好いい人だったよ」

 やり取りを進めるにつれ、リンはその体をわなわなと震わせる。ああ、これはちょっと不味いかなと、その場を立ち去ろうとしたのと、リンの大声叱責が家中に響いたのはほぼ同時だった。

「それを不審者って言うのよ、バカ!!」

◼️

 少女は怒りに任せて自室の扉を閉めた。そのままベッドに飛び込み、顔を枕に埋めて、脚をばたつかせる。

「レンの馬鹿、警戒心無さすぎ。無事だから良かったって話でしょ。純真すぎるのも考えものだわ」

 弟に対しての罵詈雑言を呻きながら、寝転がり仰向けになる。そして、天井をぼうっと見つめながら、家を出る前と後の彼を、頭の中で比較し始める。

「何で、何があったら、たった数時間であんなに良い顔になるのよ……一体、その人と何を話したの……」

 少女の知らないところで、大人に近づいた少年。得体の知れぬ誰かによって成長を促された、種違いの弟。その事実を、姉としては喜ぶべきなのだと理屈では分かっている。けれど、姉として振る舞えない自分が、その相手に対して強い憎悪を抱いている。
 なんて醜いのだろう、なんて穢らわしい感情なのだろう。姉として尊敬してくれる弟を裏切る、心疚しい想い。自分の名前に、倫理に背を向ける情意。そのことを考える度に、自分の存在が許せなくなる。

「私、こんなんじゃなかったはずなのに」

 口から漏れた声は、随分遠い誰かのものに感じる。
 ふと、ベッドの下に隠した物を思い出して、無意識に床に突っ伏して手を伸ばす。奥の方に押し込まれていたそれは、ジャケットも円盤のの表面印刷も日焼けした一枚のCDだ。彼女の手に収まると、持ち主との再会を喜ぶかのように、部屋の照明を反射して虹色に輝いた。
 彼女は印刷された人物の顔をじっと見つめてから、途端に顔を歪めて、乱雑にそれを元の場所に戻す。

「歌なんて、嫌いよ」

 それは誰に向けての言葉だったのだろうか。潔癖な彼女が抱えるには似つかわしくない、この世のありとあらゆる積怨、虚脱感、憂悶が籠められた、酷く低い声。
 光のない瞳で、今度は机の上に置かれた写真立てを手に取った。そこには仲睦まじそうな家族の写真が飾られてある。父と、自分と、弟と、母。どこかの行楽地で、体を寄せ合って、とても幸せそうに笑っている。まるで、その四人で、この世の幸福は完成されているとでも言いたげに。
 この写真を見る度に、とても愛おしくて、とても咽び泣きそうになる。心に雪崩れ込んでくる寂寥感と狂恋に圧し潰されそうな自我を感じる。
 この写真も、あのCDも。結局捨てられぬままに、矛盾を抱えて生きているのだ。これまでも、そしてこれからも。
 泣きたいとは思わなかった。感情を殺すようにして、写真の中の父と弟に口づけを落とす。

「愛してるわ、二人とも」

 誰にも届かない言葉を残して、今宵も彼女は物思いに耽る。

◼️

「凄く長い一日だった……」

 オレはベッドにうつ伏せになって、全身の力を抜く。先程までリンの説教を受けて、凹みながら風呂に入って、どこに寄ることもなく自室に戻っていた。
 今日は月がとても綺麗だから、カーテンは閉めずにいる。部屋の灯りは消したままだから問題は無いだろう。
 しかし本当に、感嘆しそうになるほど白い満月だ。神秘的を通り越して、いっそ神々しい。星も、普段なら見える月面の模様も何一つ見えない。ただ月だけが天高く、絶対的な存在としてこの地上を見下ろしている。
 そう考えると、あの月は確かに麗しいけれど、少し不気味なものに思えてきた。もし意思があるのなら、この夜に起こる全ての出来事を観賞しているのかもしれない。善も悪も何もかもが見透かして、人の営みをほくそ笑むような……そんなに馬鹿げた想像に思わず苦笑する。

「あの人に言ったら笑われるかな」

 月を眺めていると、先程まで会話をした彼のことを思い出す。
 今頃何処で何をしているのだろうか。あのような人に会ったのは生まれて初めてのことだった。
 そういえば、彼はオレの名前を聞いても嗤わなかったな。今までの人生では、特に同年代の相手から女みたいな名前だと揶揄され、大人たちも少し戸惑う始末だった。一方あの人は、遠回しに良い名前だと誉めてくれた……気がする。
 彼の名前は十戒に由来すると言っていた。逆十字がどうのこうのとも。いつもいつも、こういう事態に陥ってからようやく、真面目に勉強すれば良かったと後悔するのだ。オレはどちらにも疎かった。聖書とか神様とか、そっち方面の話だということしか知らない。やはり無知は罪だ。明日からはもう少し、真っ当に励んで生きようと思う。

「……明日、調べてみるかな」

 時刻は1時を過ぎている。襲い来る睡魔に意識が持っていかれそうだ。
 微睡みに落ちる直前に、彼の姿をもう一度脳裏に描いた。容姿、佇まい、言動。それらの中でも一番、品の良い青い髪が印象深いと思った。
 ーーそういえば。
 ウルトラマリンブルーは聖母マリアの象徴と同じ色だって、家庭教師のルカ先生が言っていた気がするな……。

「戒十さんに、早くまた会いたいな」

 うとうとと、意識が闇に近くなる。
 無自覚のまま、かの人の名前を呟いて、オレは深い眠りについた。

◼️Prologue.