捏造注意/大汐IF√】いつか⬛⬛が現れて、裁きが下るその日まで

□注意事項

※後編配信前に執筆した「捏造過多」の二次創作の大崎×汐留iFルート。
 島から生還後の後日談(一篇目)→大江島滞在最終日の夜(二篇目)→?(三篇目/おまけ)
 友愛で大崎→有明の要素も含みます。下地としては全体的に有明さんB√と対。
 マイルドな描写ですが、大崎と汐留以外のキャラ達の死ネタ・倫理観の欠如した言動・グロテスクな表現・カニバリズム描写があります。 
 自己解釈も交えた完全な捏造です。キャラも舞台背景も。汐留の思想と背景が一番捏造。

 以上の注意事項を許せる方だけご観覧ください。

□昭和3X年 冬

 大江島の一件後。
 紆余曲折がありながらも再会を果たした汐留さんと共に暮らすようになって半年が経つ。
 自分が以前から借りているあの狭い一室に成人男性二人で暮らすのは異様な光景だが、意外にも大家は快諾してくれた。
 それもこれも汐留さんが大家に懐くように明るく接したことで、良好な仲を築いたからだろう。

 こう見えて學國大学の首席だった汐留さんは島から帰還後に退学届を提出――養父を食害した彼にはもう身寄りが誰一人としていなかったが、自分が調査して彼の所在を見つけ出し、改めて互いの”想い”を確かめあう形で正式に結ばれることとなった。
 その後彼の働き口として探偵事務所で雇えないかと新木場さんに相談した結果、汐留さんも今では探偵見習い――事務所の一員として自分と品川君から作法や技術を教わっている。
 地頭は良いため呑み込みは早い。
 だが性格や言動・態度自体を変える事は困難であるために、特に品川君には苦労を強いてしまっているようで申し訳なく思う。
 一応自分の方から注意をすると仕事中の態度と言動に関しては少しだけ耳を傾けてくれるので、牛歩だとしても公私の切り替えの矯正を図っている最中だ。
 
 新木場探偵事務所に新しい風が吹き、それが当たり前の日常として定着しつつある。
 新木場さんは汐留さんの言動を朗らかに受け入れてくれている。
 品川君は苦手意識を抱きながらも、汐留さんの頭の回転の早さや物覚えの良さに関しては認めている。
 ……たまに自分と瓜二つの顔を持つ男が自分の部屋に押しかけてきて、汐留さんを飯で釣ったり愛車に乗せて二人きりでどこかに出かけたりしているが、本当に勘弁してほしい。教育に悪すぎる。あなたに似てきたらどうやって責任をとるというんだ。
 ――そして自分は、新しい人生を踏み出した汐留さんの成長を見守り、一日の仕事が終われば並んで家路につき、狭い一室で二人きりの時間を過ごす毎日が続いていた。

 誰かが傍にいなければ、「おやすみなさい」と声をかけなければ眠ることが困難な汐留さん。
 そんな彼が安眠出来るよう、今夜も彼の耳元で囁きかけ、同じ布団で眠りにつく。
 自分と汐留さんが親しくなってから毎晩欠かさずに行っているこのまじないは、もはや日課を越えて一種の儀式めいたものになっていた。

 この半年を振り返ってみれば汐留さんの個性的な騒がしさと人懐っこさ、予測不能な言動の数々に振り回され続ける目まぐるしい毎日だったと思う。
 それでも自分に向かって心を許し、この人ならざる手を引いて笑いかけてくれる汐留さんの存在は、希死念慮と隣り合わせにいた自分をこの世に繋ぎ止めてくれるかけがえのないものの内のひとつに違いなかった。

 ――あの島で自分が過ごした”地獄”とは全く異なる、心穏やかな日々。
 
 地獄。この記憶が思い起こされる度に、自分の意識は今居る空間から遠く離れた過去の大江島に還ってしまう。

 緋色と肌を焼く熱気、火花の音、濃紺の空に浮かぶ星まで届くほど高く、高く立ち上る煙。
 すべてを覆い隠すように島を燃やし尽くす大火を背に、口元や衣服に泥や血をこびりつかせたまま、自分にあどけない顔を向けて両手を差し出す汐留さん――。
 大江杏の三回忌の代理参列を引き受けなければ、自分は汐留さんと出会うことはなかった。
 けれど大江島で起きた数々のおぞましい出来事は今でも心を強く苛んでいる。
 あの島から消し去った数々の真実と怨霊、そして”残されたもの”が――この肉を食い破るように身の内側から――這い出して、今でも自責の念に駆られて⬛⬛するよう強く訴えかけてくる。

 目を疑うほど凄惨な光景。
 参列者達の醜悪な一面。
 島から与えられる罰、肌を刺すような畏怖。
 忿怒と発狂による自我の崩壊。
 一生をかけても忘れることはないだろう、口に残るあの独特の――……


「大崎さん大崎さん」

 そこまで思考が進んだところで、とても近い場所から汐留さんの声が聞こえた。
 深夜。布団に横になる自分の腕の中には汐留さんが収まっている。
 寒冷な室内とは裏腹に汐留さんの体は子供のように温かい。
 一方の自分と言えば、彼の人肌の心地よさを汚すように大量の汗をかいている。
 体温が下がった素肌にべっとりとはりつく衣類の存在が気持ち悪い。不快感の強さから脱ぎ去ってしまいたいと考えてしまうほどにだ。
 暗闇に順応した己の視界は、自分の表情を上目使いで覗き込む汐留さんを映す。

「冷や汗やばいですねー。スゲー寒いのに。今日は大崎さんが眠れないんだ?」

 自分に言葉をかける汐留さんの様子は普段と変わらない。
 声量を抑えるわけでもなく、口調もわざとらしいものだった。だが背中に回る腕の力が少しだけ強まったことに自分は気づいていた。

「……すみません。抱き心地は良くないでしょう。今からでももう一床敷きますか」
「いーえ、そんなこと俺が気にすると思います?」

 汐留さんはそのまま自分の胸元に頬擦りをし、甘えるように己の脚を自分のそれに絡めてくる。
 その意図は恐らく性的欲求とは異なるもので……まるで幼い子供が相手の存在を直に感じたくて密着するのと同じような行動に思えた。
 自分達は所謂”恋人”の立場にあるが、それでもやはり汐留さんはたまに実年齢よりも幼く振る舞うことが多々ある。
 情を交わす日ではなくとも、就寝の際には必ず自分の体温とたったひとつの言葉を求める。
 汐留さんが心穏やかに……何かに脅かされることなく眠りにつけるのなら構わなかったし、自分としても執着(あい)してしまった彼がこの腕の中に閉じ込められ、自分だけを求めてくれるという事実だけで、下腹部の奥底に眠る独占欲にも似た衝動が昂りかけるのを自覚していた。

「指、今でもまだ痛みます?だから眠れないとか?」

 突拍子もない汐留さんの問いに誘導される形で意識は左手――本来なら薬指の付け根に当たる場所に向かう。
 今の自分の左手の指は四本しかない。
 薬指のみ島での一件で損なわれたが、普段は手袋を嵌めているため遠目では気付かれることは少ない。
 日常生活で不便だと感じる機会は多々ある。しかし最近では「慣れてさえしまえばこんなものか」とすら感じている。

「いえ、痛みはすっかり無くなりました。……むしろ気持ちとしては、今の形の方がしっくり来ているような気さえします」
「いひひ、前も聞きましたねそれ。なら良かった。でもマジで痛くなったらちゃんと言ってくださいね。たまに居るらしいですよ、無くなったはずの部位が疼く人」
「はい。そのときは、必ず」

 汐留さんは愉快そうに歯を見せてにこりと笑う。
 本当に、笑顔だけなら人懐っこく、無邪気で無害そうに見えるな。
 自分と共に生きると定めてからの汐留さんは、むやみやたらに他者に危害を加えようとはしない。
 かつて島で見せた嗜虐性は当時と比べるとすっかり落ち着いたと思う。
 それとも島を訪れる前も、このような感じで人に紛れて生きてきたのだろうか。

 ……ともかく。
 汐留さんはこの自分さえ傍に居ればそれで良い、安心するのだと度々口にしてくれる。
 だからもう眠りに就いていると思っていたのだ。汐留さんは大丈夫なのだと。
 そう考えていたからこそ、眠れぬ深夜に汐留さんから声をかけられたのは自分にとっては思いがけない出来事だった。

「ねーねーねー、大崎さんってばー」
「はい、聞こえてます。汐留さん」
「今更かもしれないですけど、そういえば大崎さんって凄く”怖がりさん”でしたよねー。俺しかいないところでなら無理して強がらなくてもいいのに。臆病な大崎さんのこともちゃんと知ってるんですから。
 さっきから震えてますよ。声も、体も。ぜーんぜん隠しきれていません」
「……」

 恐怖心。
 大江島を訪れるまでは持ち合わせていなかった、否、無自覚に麻痺させて記憶の奥底に眠らせていた感情。
 汐留さんと共に経たあの数十日間。島から与えられた”罰”によって掘り起こされたもの――……。

「もしかしてまた、思い出しちゃいました?」

 汐留さんの問いかけに、理性と思考が働くより先に体が咄嗟に動いた。
 自分がしでかした行動を脳が理解したのは、飛びかかるように勢いをつけて上体を起こし、汐留さんに覆い被さる形でその顔を見下ろした直後だった。
 呼吸は荒く、体は大きく震え、額から溢れだす滝のような汗が汐留さんの体に滴り落ちる。
 今、自分はどのような表情を浮かべているのだろう。
 鏡を見なくても分かる。まさに鬼の形相に違いない。
 汐留さんは静かに笑っていた。普段のけたたましさは鳴りを潜めて。
 そして彼はそのまま左手を自分の右手の指に番うように絡ませ、もう片方の手は自分の左手首を掴み、そのまま汐留さん自身の顎の下に運ぶ。

 ――成人男性にしては太くはないその首を、片手で鷲掴みにするような体勢だった。

「、」

 酷く暴力的な己の本性が、この身体の皮膚を破って汐留さんの体を貪る姿を想像した。
 その衝動と抗い難き欲求に身を委ねてしまいかねない自分を律そうと、瞳孔を見開いたまま歯を食い縛る。
 頭が割れるようだ。
 疼痛すら越えて、頭部全体が内側から業火に呑まれているかのよう。
 熱くて痛くて、重く響く己の心臓の鼓動の音が五月蝿くて仕方がない。
 いやだ、嫌だ――自分はこの暴力の色を濃く帯びる衝動に呑まれたくない……。

「……いひひ」

 場違いな笑い声が、何故か鈴の音のように脳を澄み渡る。
 途端に、まるで喚くレコードを急停止したときのようにブツリと全てが無音に包まれた。
 ……”鬼”から”人”に戻れた。直感的に理解した。
 解放感と共に冷やされていく頭が現状の理解を頑なに拒む。
 自分は今、己に元来宿る暴力性をありのままに曝け出して、汐留さんを⬛そうとしなかったか。

「おーさきさーん、」
「……汐留、さん……」

 汐留さんは自分の瞳から知らぬ間に溢れ出した涙を拭い、指を咥える形でそれを口に含んだ。
 歯と舌をわざと見せつけながら「うへえ、しょっぱい」と悪戯っぽく笑いかける。
 ……堪えきれなかった。睦むように絡ませた右手の指に力を込める。
 ただただ自分より年下であるこの青年に縋りたいと、卑しくも願ってしまった。

「……すみません……汐留さんを……害したいわけでは、」
「いいんですよ、別に。俺のこと犯したいとか、壊したいなって思うのならどーぞ遠慮なく。そりゃ普段だったら全力で抵抗するし目玉くり貫いちゃいますけど。大崎さんにされるなら別に良いですよーってずっとずっと言ってるじゃないですか」

 汐留さんは繋ぎ合わせた指で自分の手の甲をくすぐるように器用に撫でる。普段の彼がしでかす悪戯とは質が違う、まるで幼子をあやすかのような仕草だった。

「だって大崎さんがそう難しく考えちゃうのって、仕方のないことだし。ふとした時にやだなー、考えたくないな、辛いなーって弱っちゃう気持ち、俺はちゃんと理解してるつもりです」
「仕方の、ない……」
「俺も昔は同じだったってことです」

 そう言うと汐留さんは自分の首の後ろに腕を回し、引寄せるように抱き付いた。
 汐留さんの熱が、とても心地良い。
 その上、彼の口許が自分の耳のすぐ真横にあるため、彼の微かな息遣いですらより鮮明な音となって鼓膜を震わす。
 ……情欲をそそるような体位ではあるが、これは場違いで邪な考えだ。
 互いの顔を視認するのは不可能な体勢。
 こちらの動揺にお構いなしの汐留さんは歌うように軽やかに、言葉を旋律として奏でるかの如く自分の耳元に語りかける。

「まだ覚えているんですよね。嫌な記憶って俺たちの膚の上にべったりと赤黒い手形ばかりを残して、どんなに強く拭っても全然落ちてはくれないんですよね。
 杏ちゃんの三回忌。大江島で起きたすべてのこと。
 みんなみーんな、人じゃなくなって後戻りできなくなっちゃった、健全な人からすればきっと筆舌に尽くし難い地獄に見えちゃうあの日々を。
 まあ……結論だけ見れば、執り行われてしまった儀式のせいで皆気を違えてしまったって話になっちゃうかもしれないけど……。……ん?待って待って、それだとよくよく考えなくても全部俺が悪いって話になっちゃうかー?
 まあでもどうせ儀式をやらなかったとしても、あんな長い期間ずーっと餓えが続いちゃったなら、結局最後には他の誰かを食うしかないって発想に至るのも無理はないと俺は思うけどなー。特に市場前さんなんかは実際に起きた似たような話を知っていたようですし、食人に行き着く種としては儀式以前に俺の罪状もですしね。
 そもそもですよ、危機的状況の中で起きた食人って、本当に責められることですか?
 参列者は自分の罪状の中身を知っている他の参列者を殺すために、或いは純粋に生き残りたくて、ああするしか他に手段はなかったんだって本気で信じていたんです。だってどんなにちっぽけで、愚かで、頼りないものだとしても、希望が無いと心が死んでしまいます。生存意欲です。動物が本来持ち合わせているはずの本能なんです。
 俺は一応民俗学者の端くれだったので本当はテキトー言っちゃいけないんだろうけど、最初に流れ着いた身重の女が我が子と交わってでも数を増やした理由こそ、生きるために食えるモノを少しでも増やそうという強い欲求だったんじゃないかと思いますけどねー。まあただの推理でしかないです、戯れ言です忘れてください。
 ていうか、もしも大江島に眠る食人の真実を解明した誰かが正義感で過去の人々の行いを叱責してきたとしても、そんなの平和ボケした輩の中身のないご高説ってやつですよ。当時の緊張感や閉塞感ってやつを想像できない馬鹿な外野でしかないから、偉そーに、綺麗事ばかり平気な顔して言えちゃうんです。自分には無関係ですもんね、そりゃ好き放題言えるってもんです」

 汐留さんが捲し立てるように紡いだ言葉は、健全な精神を持つ者達からすれば身の毛もよだつような話なのだろう。常識から逸脱した、許されるべきでない痴れ者の戯れ言だと一笑に付されるかもしれない。
 それでも自分は彼の言葉の中身以上に、彼の高めの声――まるで風鈴のように透明な音に耳を傾けていた。
 話の内容そのものは自分が背負う罪の意識を一層刺激する苦いものに違いはなかったが、汐留さんから与えられるこの罰は苦しみよりも先に安らぎを与えてくれる。
 
 ――少なくとも自分は、汐留さんがこのような思想に至った経緯を……彼の罪状の真実を告げられている。

 絶望の中で心が凪ぐとはこういった心地なのかも知れない。他でもない汐留さんの言葉だからこその力だ。
 普段はやかましさすら感じる汐留さんの持論が、今の自分にはとてもありがたかった。


「とにかく!あの中で生き残ったのが俺と大崎さんだけだったってことが重要なんです。あの場にいた他の誰でもなく、よりにもよって”俺たち二人が”、ですよ?」

 いひひ、と彼独特の笑い声をあげながら汐留さんは顔を近づける。
 互いの鼻の先が擦れるほど距離を詰め、円い瞳で自分の瞳の奥を覗き込むように見つめてきた。
 いつものように鼻に噛みつくのではないかと危惧したか、それならそれでもまあいいかと考えてしまう自分もいる。
 見えるところは確かに困るが、既に衣類の下には汐留さんの歯形がくっきりと残ってしまっている箇所もある。ひとつ痕になってしまえば増えたところで……という諦めと、これが汐留さんの求愛行動だと思えばかわいいものだという甘やかしかもしれない。
 こちらの考えなど知ってか知らずか、汐留さんは更に言葉を続ける。鳴り止まぬレコード。自分が口下手だからこそ、より彼の口数は多く感じられる。

「言ったでしょ?俺が笑っていられるのは島から守られているっていう自信があるからだって。
 有明さんでもない、日出さんでも市場前さんでもない、あの場に居たであろう施主ですら大江島は拒んだ。皆、罰せられて死んでしまった。
 唯一生き残った俺たちこそ、島が選んで酌量してくださった罪人なんです」

 汐留さんは初めから、大江島をまるで生き物のように、意思がある大いなる存在として崇めている。それは民族学を率先的に学ぶ彼の人生経験から形成された人格なのだと思う。
 この専門分野に親しくないものは「気味が悪い」と一蹴し遠ざけるだろうが、島での一連の事態を経た今の自分は大江島に巣くう得体の知れぬ概念を信じざるを得なくなっている。
 もはや自分にとっても、大江島に纏わる伝承はただの調査対象でも、他人事でもない。すぐ身近に感じられる畏怖すべきものになっていた……。
 
「だから大崎さんが嫌でもあの長~い日々を思い出しちゃうんなら、あの島で見た出来事だけじゃなくて……俺と過ごした中で見たり聞いたりした色々なことも一緒に思い出してくださいよ。そうすればほら!かな~り恐怖値が減ったりしません?」

 ……いや、その発言は無理がある。これはあまりにも無神経な発言だろう。
 もし自分に笑う機能が正常に備わっていたのなら、きっと苦笑いを溢していたと思う。
 そもそも自分の正気が削り取られた最初の出来事は、監禁中の汐留さんに指示され導かれる形で立ち入った折檻部屋だ。
 その他にも様々な施設で島の狂気に意識が呑まれ、度々発狂しそうになる自我を懸命に離さずに何とか持ち堪えたのだ。
 汐留さんのこのような一面は俗に言う”良くないところ”なのだが、そうした悪い部分も含めて愛おしいと感じてしまう時点で自分はもう末期なのかもしれない。

「あなたの傍にいたのが俺だったことを、起きてるときも眠ってるときも、病気にかかっちゃっても元気いっぱいだ~って日でも、ずっとずーーーっと!一瞬たりとも忘れないでいてくださいね」

 汐留さんの言うことは支離滅裂だ。
 初対面の頃には既に参列者から彼に向けられる感情は好意か嫌悪に分かれていたのも理解できる。
 彼に対して無関心の立場にあったのは自分だけ。
 ……そうして遠ざけた彼との境界線を越えたのは何時か。
 船野さん殺しの犯人である汐留さんを突き止め拘束した日の夜――監視のために自分一人が彼の下を訪れ、あの夜に汐留さんに乞われた言葉を返した。
 その小さな決断が全ての流れを大きく変えたのだと今では確信している。

「最後の日……島の何もかもを二人で燃やして回ったときに、俺たち約束しましたよね」

 コツンと、汐留さんが互いの額を合わせる。
 彼のつぶらな瞳は目蓋で覆われていた。
 ……何もかもを吸い込む渦のようなあの目を覗き込めないのは嫌だから開いてくれないかと、場違いな考えを口にしそうになるが、自分らしくない気がして唇をつぐむ。
 
「大崎さんはひとりぼっちじゃないんですからねー。大崎さんが俺の傍にいてくれて、人から呆れられるくらいたっくさん甘やかしてくれているように、俺だって大崎さんから離れません。ずっとべったり付きまとっちゃいます!
 何なら今みたいに大崎さんが辛いな~って考えすぎちゃったら、ななななんと!俺が大崎さんを目一杯、痛いって泣き出すまで甘やかしちゃうサービス券を贈呈だ〜!いひひ、やろうと思えば意外と出来るんですからねー」

 かつての夜にも似た言葉を告げられたというのに、今晩のそれは何故だかとてもこそばゆい。
 台詞とは裏腹に、汐留さんの声色も普段からは想像もできぬほどに優しく、穏やかなものだ。……まるで赤子に向ける子守唄のようだとすら感じる程に。
 この気恥ずかしさは恐らく普段の立場とは逆転しているからなのだろう。
 いつもは眠れないと泣いてせがむ汐留さんに自分が寄り添う形だ。けれど今晩は全くの正反対なのだから、少々格好がつかないと感じるのも致し方ない。

「ね、大崎さん。
 あの島ですら拭えなかった俺たちの罪の意識を罰せられる存在は、もうお互いしかいないんです。
 心の中に閉じ込めた怪物の自分が寂しいって泣き喚いても、暴れたくなったとしても、もうひとりじゃないから泣かなくて良いんだぞーって。俺たちだけが、お互いを抱き締めあえるんですよ……」

 息を吐くように言葉を続けていた汐留さんの口の動きが止まる。
 汐留さんの目蓋が、ゆっくりと開く。そして合わせた額を離し、強く自分に抱きつくことでぴったりと互いの体を密着させる。
 首筋にかかる吐息も、特有の体温も、何もかもが熱を帯びていた。


「だって俺たちは、この世で唯一の同類なんだから……」 

 ――だからもし大崎さんが俺より先に死んじゃったら。俺、今度は大崎さんのすべての肉を美味しく戴いて、遺骨もぜーんぶ粉々にして食べちゃいますからね。あ、今のやっぱナシ。頭だけはそのままの形で残します。ちゃんと見える形でもずっと一緒にいて欲しいから。なるべく綺麗なままで保存できるよう頑張ります!
 ――だってそうしないと俺、ひとりぼっちになっちゃいます。大崎さんが傍にいてくれないと本当の本当に無理なんです。耳元で、大崎さんの低い声で優しく「おやすみなさい」って言ってもらえないと、もう耐えられない体になっちゃったんです。
 ――お願いです。良い子にしますから。大崎さんの言うことなら何でも聞きますから。
 ――俺を置いて死んじゃわないでくださいね……。


 自分の胸に縋る体と、普段の汐留さんからは想像できぬ程か細い声は徐々に力を無くし、言葉を終えたと同時にその上体も仰向けに倒れる。
 どうやら深く就眠したらしい。
 すやすやと寝息を立てる汐留さんを食いるように見つめ、彼の額を、頬を、唇を、首筋を、壊れ物を扱うかのように指で撫でた後、右腕で彼の体を静かに抱き寄せる形で横になる。

「……おやすみなさい、汐留さん」

 こちらに応えるかのように汐留さんが寝返りを打つ。これでいつものように顔を向かい合わせて寝る形に収まった。
 
 ……自分と汐留さんの関係を言葉にするなら「守る」という表現は全く適切でない。
 本当に守るべきだったであろう人達は、あの大江島で朽ちて、他者の血肉となり、残された遺骸も灰になった。
 この追想の度に付随するのは鼻の奥をくすぐる、薄れた過去の残り香が後ろ髪を引くような……紙の味を吸ったキャラメルを想起させる苦い薫りだ。

 けれど今の自分に後悔はない。
 自分は汐留さんに手を引かれ、彼を理解しようと決断し、彼と共に”その日”が訪れるまで幸福を嚙み締めて生きていく。
 このように自分を突き動かしたのはいつの間にか汐留さんに対して抱いた執着(あい)だけではない。
 
「置いて逝くことも、置いて逝かれることも。決してありません。汐留さん、忘れてしまったんですか」

 お互いが抱えた人ならざる怪物たちが、まるで導かれて引き合うように求めあったのだ。
 人にまみれたこの世の波の中、”仲間”の存在を感じ取ってしまった。

 罪には罰が付きまとう。人も鬼も、神仏の罰を本能的に恐れている。
 罪は必ず罰せられる。のらりくらりと躱しても、脆い精神はいつか崩落してしまうと知っていた。
 それならば、自分は――……。

 体の下に敷いた左手を顔の前に晒す。
 赤く爛れた四本指の手のひら。
 創作や芸術で描かれる鬼は三本指のものが多いが、ある伝承に出てくる有名な鬼の手は四本指であったという。
 あの鬼と同じくこの手に残されたのは三種の毒、そして探偵に必須の智慧なのだろう。
 このような自分にも宿っていたかもしれない最後の一欠片は、もう既に汐留さんに授けてしまったのだから。
 

「あの日誓い合ったでしょう。
 いつか自分達の前に本当の神仏が現れて、その裁きによって死ぬべき日が来たならば、二人で抱き合いながらこの身を焼かれましょう、と」


 ――島を飲み込もうと猛り揺らめく緋色に照らされて、自分と手を繋ぎながら無邪気に踊るあなたの面差しを、今でも鮮明に思い返すことが出来る。

 例え神仏が定めた自分の運命があなたではなかったのだとしても。
 自分はあなたを唯一無二の運命だと定めた。
 あなたになら奪われても騙されても、仕方がないと認めてしまった自分の負けだ。
 他の誰でもない、あなたを愛した。
 ただそれだけの話だったのだ。



□昭和30年 10月某日

「わあー!すげぇ壮観だぁ……空そのものは真っ暗のはずなのにこんなに真っ赤にてらてらと輝いて。まるで悪魔が長い舌をべーって出してるみたい」

 大江島の全ての悪夢を揉み消そうと勢いを増す炎の海を眺めながら、汐留さんはその場にそぐわない興奮を隠さず感嘆の声を漏らしている。
 一方の自分は精神的疲労の重さに限界を迎え、視線の先を汐留さんの背中から外さぬままその場にへたり込んだ。

 ……終わったのか。終わらせたのだ。何もかもを。
 強い実感が背筋を這い上がると同時に、込み上げてくるのは形容しがたいほど複雑に絡み合った激情の数々だ。胃の中身こそもう何も残されていないが、全てを吐き出してしまいたいという甘えを無理矢理唾に変えて飲み込む。
 手袋を外したままの震える両手が、無意識に拳を握る。
 あんなに死にたいという願いを引き摺っていた自分が、未だ五体満足のまま生きている。
 あんなに死ねないと狂乱した参列者たちの骸が、異臭を放つ灰となり空に舞ってゆくのを、ひとつひとつ見送って。
 本島から遠く離れたこのような場所で死ねない理由が自分にはあった。……まさかそのような小さな手荷物がもうひとつ、この一生に現れるとは思いもしなかったが。

「これだけ火が目立てば警察も動くでしょう。救助も来ます」
「ですねー。こんだけ派手に燃えてたら逆に怯んじゃって到着遅れちゃいそうですけど。でも無事に帰れるんですね俺達。最初はもう駄目かと思いました。はぁ、すごーく長い非日常!まさに冒険!って感じでしたね」
「……」

 そうだ。とても、とても長かった。
 本来ならばもっと早くにこの手段を取るべきだったし、全員が正気を保てていた段階で気付くべきだった。
 ……罪状に関する参列者たちの思惑と、切迫し急変する事態によって深まる疑心暗鬼すら無かったならば、皆が狂いさえしなければ。
 きっと全員で、取り返しがつかぬほど堕ちるよりも先に、あなたたちを待つ誰かの下に帰ることができたのだ……。


 この十数日間――正確な日数は分からない、自分は耐え難い惨劇から目を逸らしたいという一心で思考を放棄してしまい、記憶があやふやな期間が短からずある――この大江島で起きた一連の出来事を述べる。

 一人目の被害者である船野さん……彼を殺したのは今、自分の目の前で炎を眺めている汐留さんだ。
 現場の証拠や状況から犯人を突き止め、汐留さんを拘束。隔離し、主に自分が監視を務めた。その過程において自分と汐留さんは言葉を交わす機会が増え、他の参列者との関係以上に彼と親しくなってしまった。
 第二の殺人。竹芝さんが配膳される茶の中から、竹芝さん自身で選んだものによって毒殺される。この犯人は未だに分からずじまいだ。
 その後、救難信号や島からの脱出を試みるも失敗。
 頼みの綱であるボートすら沈み、それに乗った豊洲さんは海へと沈んでいった。……八重垣に集めていた食糧を、全て持ち去るという愚行と共に。
 これにより参列者の互いへの疑心と嫌悪がより明るみとなった上、食糧難は深刻化。ついには食人によって命を繋ごうというおぞましい提案にすら賛同する者が次々と現れ始める。
 誰の肉を食するか――第一の候補として真っ先に挙がった名前が、他でもない汐留さんだ。
 まだ二十歳。若い肉、同情の余地無き殺人鬼。そもそも遺体を倉で燃やす……”食人の儀式”に他の参列者たちを巻き飲んだのも彼だ。
 殺されても文句は言えない、このような悪魔に悲しむ者など居はしないに違いないと、異論を唱える参列者は現れなかった――ただひとり、自分を除いて。
 平静を失った集団に真摯に言葉を投げ続けてもまともに取り合うはずがないと理解はしていたが、それでも自分が反対だと告げると冷めた目で返され、斧の切っ先を向けられる形で脅された。庇う自分の方こそが異端なのだと。
 交渉は不可能の域まで来たのだと痛感した。
 そして自分は皆の隙をついて汐留さんの拘束を解き、手を取り合うように二人で森の中に逃避した――。

 ここから先の話は思い返すだけで動悸と眩暈が酷くなる。
 ……改めて選んだ食人の贄は、か弱いもの、集団の行動に反意を見せる者を第一の対象にしたという。
 数日後、悪化する飢餓の末に新橋さんが隠し持つ食糧を……窃盗、すると……そう決めた自分と汐留さんは、二人で三日月に忍び込んだ。
 そこに並べてあったのは、いつも自分に対して柔らかな笑みを向けてくれた、有明さんの、

「大崎さーん?聞ーこえーてまーすかー?」

 ――鈴の音に近い高い色。汐留さんの呼ぶ声が、澱む泥の中に落ちかけた自分の意識を現実へと浮上させる。
 危ういところだった。自分はまた内なる鬼に呑まれそうになっていたのか。

 汐留さんはいつの間にか伸ばせば手が届くほど近くまで駆け寄り、こちらを見下ろすように立っていた。

「大丈夫ですかー?俺がいくら声をかけて目の前で手を振っても無反応。心が耐えきれなくなって遂に死んじゃったのかと焦っちゃいましたよ」
「……大丈夫、大丈夫です。ですが少し気分が優れなくて、眠ってしまっていたようです」
「目ん玉かっぴらいたままで?探偵さんって器用だな~」
「……」
「質問してもいいですか?」

 汐留さんはいつも形にとらわれない。爪先立ちで小躍りするかのようにころころと話題を転換させる。そんな彼の調子にも、もうすっかり慣れてしまった。
 問いを続けるよう無言で頷く。自分の返しを確認すると、汐留さんは掌を目の真上にかざして遠くを見る仕草をする。視線の先は大江島……森や建物、遠くの設備まで、燃え盛る景色を彼は楽しむように見渡していた。

「救援を呼ぶために夜間に大きな火を起す。向こうの島民達がいかに無関係を装っても、これだけ派手に炎が上がれば日本の警察はちゃんと動いてくれます。その案には納得です。
 でも何で?何もかも無茶苦茶で、綺麗な人なんてみーんな上っ面の見た目だけ。大崎さんなんて数日間気を失うほどにまで心が折れちゃったのに、俺達以外が全員死ぬまでずーっと待ち続けて。俺達を殺そうとする最後の生存者を返り討ちにしてから一人一人の遺体を訪ねて、全員燃やしながら島中に火を点けて回りましたじゃないですか」
「……。はい」
「何で”今”だったんですか?どうして皆の遺体を確認するみたいに、わざわざひとりひとりが転がってる場所を訪れて、それに自分の手で火を点けたんです?」
「……」
「直に見なければもっと気持ちは軽かったのに。目を瞑って、聞こえないふりをして、遺体の皆さんに向かって何かを語りかけることもなく、遠くから建物や近くのものに火を投げ込めば楽だったでしょ?
 それなのに遠くにばらばらに倒れている、会って間もない参列者たちをわざわざ丁重に弔って、お言葉をかけて、火葬して。所詮赤の他人でしかないのに、大崎さんがお葬式をする必要、本当にありました?負担でしかないじゃん。ていうかこんなに大々的にやらなくても小屋のひとつだけを燃やせば、救難信号には十分だったはずですよね?」
「……その通りです」

 やはり汐留さんは聡い。彼の疑問はすべて正しい。
 このような遠回りをしなくても、狂気でどうしようもなくなったとしても、生存者がいる内にこの提案を持ちかけてさえいればもっと多くの参列者が助かった。
 自分でも分かっていた。分かった上で、この選択以外はあり得ないと、自らの決断で彼らを切り捨てた。

「元気のない大崎さんにひとつ、いいことを教えてあげます!
 実は俺、ちゃんと分かってますよ。大崎さんの心境。どうしてこんな回りくどい方法を選んだのか。察しちゃえてます。
 俺だったら絶対にやらないし、この人どうしようもないくらい馬鹿なんだなーって思ってますけど。まあ”あっち”と”こっち”の狭間でバランス取れちゃった今の大崎さんだったらギリやるかもなーって感じでした。なので納得はしてます!」
「……汐留さん……」
「ホンット、とんでもない大罪ですよ!きっと”お迎え”の瞬間までずーっと悩んだまま、報われもしない、あっけない感じで死んじゃうんだろうなこの人~って同情してます。世間様は薄情です。醜悪だけど高潔なあなたの弱音なんて、だーれも聞いてくれやしません。そりゃ親しい間柄の人に打ち明けたなら優しい言葉はかけてはもらえるだろうけど……けどそれって大崎さんの望む救いとは違いますよね?あなたの苦難を想像したとして、それは理解なんかじゃない、そもそも身近な人にこそ共有したくない秘密ですもんね。
 なので大崎さんが泣き言を漏らすなら今が最後ですよ。色んな嫌な物、島に埋められるのは今このときだけ。この世でたった一人、同じ時を過ごした同類の俺だけが話を聞いてあげられるんです」

 その通りだ。
 今から助けが、新木場さんが自分を迎えに来る。その瞬間を境に今剥き出しにしたままの醜い鬼の姿を、自分は再度封じなければならない。
 こんな姿を、新木場さんには見られたくない。
 何より、この島で起きた悲劇の全てを墓まで背負い、決して口外してはならぬという責務を果たさねばならない――。

「赦されては、ならないんです」
「はい」
「汐留さんの問いかけに答えるには、自分がこの島で犯し、背負うべき罪の告白をする必要があります。あなたが自分の傍で見た惨劇の回想でしかありません。
 それでも聞いてくれますか。そして出来ることなら、この自分の心が危うい状態だと感じ取る度に、あなたの声で自分に何か喋りかけてほしいんです。適当な合いの手でも構いません」
「殺人鬼の食人鬼でよければ~」

 殺人鬼、食人鬼。……それを言うなら自分も、参列者達も同じだ。あなたと同じになったんだ、汐留さん。
 ……少々呆れはするものの、汐留さんの軽口は気持ち的には有り難かった。
 自分達と他の参列者を明確に分けた境界線。自分は取り憑かれた食人の狂気に蓋をする術を理解できたから。あなたという先人の導きを受けたから、自分はあと一歩のところで人としての正気を手放さずに済んだ。ただそれだけの話だった――。
 
 ポツリポツリと、自分の口が自然に言葉を紡ぐ。

 今から語る事は懺悔に近いが、赦されるべきではない罪の告白だ。
 求めるのは罰かもしれない。島が裁かぬまま生き残った自分を、この島で新たに犯した己の罪を、この凶行を見届けた他ならぬ汐留さんに裁いてもらいたいという祈りに等しかった。

「あの日、惨たらしく解体された有明さんのご遺体を見て、自分は言いようもない怒りに駆られました。彼を汚く食すと決めた参列者たちの姿が、想像が、一人一人鮮明に脳裏を過りました。
 あんなに平和に、穏便に、全員で協力して島から脱出したいと思い続けた自分の皮が剥がれ――全員、全員殺してやりたいと、強く願ってしまった。
 もしあの場にいたのが自分一人だったなら、すぐに実行に移していたと思います。それを思いとどまらせてくれたのが、汐留さん。あなたが傍に居たからです」
「……」
「あなたがあの場で自分にかけた言葉を、まだ覚えていますか」
「んー?確か、新橋さんの食糧を先に確保しましょう、それからここに戻ってきて、」
「有明さんの体の一部を持っていって、気持ちの整理がついてからで良いので食べようと、あなたが提案したんです」

 そうですそれです!と汐留さんは閃いたかのような手の動作をわざとらしく挟む。その様子を座り込んだまま、上目遣いで見つめながら、構わず告白を続けた。

「信じられないと耳を疑いました。怒りを通り越して呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
 自分が呆けている間に、既にあなたは井戸に向かっていて、新橋さんが隠した食糧を……拝借、していましたね。
 ……恐らく、八重垣でまた惨たらしい儀式を行おうとしていた最中だったのだと推測しています。食糧の問題を抱え、自分達の動向も掴めない……そんな状況で三日月で新橋さんが井戸を監視しないのは明らかに不自然だったからです。
 大人たちの自己欺瞞でしかない罪悪感が、偶然あの日あの時、彼ら全員を八重垣の”あの”場所に集めていた……」
「そうですね。多分そういうことだったんだろうなって俺も考えてました。有明さんを食うことにしたとはいえ、腐敗だけは止められません。虫も、特にこの島の蝶は肉食で遺体に集りまくりです。潔癖性な人も多かったし、より安全そうな肉を欲しがるのは簡単に想像できますね」
「唯一の救いは、最後に確認した彼の体にそのような外傷は一切無かったことです。大人たちのなけなしの良心が、本当に……本当に越えてはならない一線を踏みとどまらせた。あのような凶行に害されぬまま、部屋の隅でうずくまるようにして亡くなっていた。小さく、とても、痩せこけた姿で」
「あー、あれは流石の俺でも可哀想だなって思ったかなー。豊洲さんは沈んじゃってもう居なかったし、きっと寂しかったでしょうねー」

 豊洲さんがもし島に残っていたのなら、愚行を犯そうとする一人一人に説法を説こうとでもしたのだろうか。そもそも食糧難を拗らせたのは豊洲さんのせいだというのに。
 ボートが沈んだのはきっと施主からの罰だ。けれどせめて、あの少年が拠り所にしていた希望すらも裏切って逝かないでほしかった。

「自分は有明さんの遺体の周辺と彼のポケットを探りました。ナイフと……キャラメルの包み紙しか見つからなかった。掌に乗せたあの小さな紙を見つめたとき、声にならぬ叫びを上げました。
 有明さんを助けられなかった。彼の晒された頭部を腕に抱き抱え、流れる涙の理由が分からぬまま、有明さんに心の中でずっと謝り続けました」
「俺が戻ってきたのはちょうどその時でしたっけ?
 俺は有明さんから嫌われていたけど、大崎さんは凄く仲が良かったですからねー。有明さんの頭を抱えてすげー泣いてる大崎さんを見て、当時は何か胸がモヤモヤするな~くらいにしか思わなかったけど。アレ、今思うと嫉妬かもです」

 いひひ、と独特の笑い声を上げながらも、そのはにかみと声色には少しだけ恥じらいがあると今の自分には理解できた。

「……自分は汐留さんにお礼を言わねばなりません。……限られた時間の中で、直後のあなたの説得がなければ、有明さんの遺体の一部を運ぶという決断を下すのは自分には不可能だったと思います」


『――大崎さん、有明さんをこのまま残しちゃって本当にいいんですか?俺よりも大崎さんが後々すげー後悔しちゃうと思いますよ?』
『そりゃあ俺は嫌いなものないですし。有明さんを食べるのにも抵抗は全くありません。でも大崎さんは”今”は無理なんでしょ?』
『大崎さんは有明さんを失った。信頼していたお友達がこんな無惨な姿で殺された。今なんて有明さんの頭を胸に抱えながら魂抜けちゃったみたいな顔してずっと泣いてる。心が限界を迎えている証拠です』
『だからこう考えませんか?有明さんの頭部と左腕、あと肉の残っている片脚の一部のみを持っていく。大崎さんは新橋さんの食糧と頭を、俺が腕と脚を持ちます。新橋さんのやつを盗んだのは俺だから大崎さんは責任感じなくていいですよ。有明さんを食べるのに抵抗がある内は新橋さんの食糧で踏ん張りましょ。有明さんのお肉については俺も一緒に我慢してあげます!』
『っあー!そういえば俺を助けてくれたお礼がまだでしたね。なので俺の秘密をひとつだけ教えてあげますっ』
『俺はね、例え死んじゃっているとしても、その人たちの体の一部を抱き締めたり、肉や骨を食べるとほんの少しだけ安心できるんです。そりゃ飢えを満たせば死は免れますし、腹が膨れれば機嫌が良くなるって場合の方が多いですけど、そういう話じゃなくて』
『その人が大事な人であればあるほど、死んじゃった後でも俺の傍にいてくれるみたいに感じられるようになったんです。悪いことだし裁かれるべき罪なんだって分かってはいますけど、ひとりでいたり、悩み込んで塞いじゃうよりかはずっとどうにかやっていけるんです。守ってくれてるんだろうなーって信じられるから俺は笑っていられるんです』
『だから今の大崎さんの心に一番必要なのは、有明さんの頭を持ち去って、落ち着ける場所で有明さんと”対話”することなんじゃないですか?』
 
「あー……言いましたっけ、そういえば。何でそんなこと言っちゃったんだろ。お礼とか一言「助けてくれてありがとうございました!」だけで済ませりゃ良かったのに。てか逃がしてもらう時にもう言ったじゃん!
 ……はっ、そうだ!大崎さんには”おやすみなさい”も含めて何度もお世話になってるんです。ちゃんとどこかでその恩は返さないと駄目だなー、最終的に見捨てないといけなくなったら絶対に後味悪くなるよなーって思ってたんだった!」
「……当時の汐留さんの意図は置いておくとして。あの時のあなたの言葉があったから今の自分がある。これは紛れもない事実です。同時に、自分の意志を固めるに至った、はじまりだとすら思えます」
「意志。こころざし、ってことですか?つまり?」

 ……こちらの言いたいことなどすべて理解しているくせに、とぼけるのが上手いのか下手なのかよく分からない方だな。
 自分は今、微動だに出来ぬ表情筋の代わりに内心で小さく笑みをこぼしたのかもしれない。呆れているのに、何故か少しだけ心地よい感覚だ。
 明るく喋る汐留さんと話をしているだけで、この罪が軽くなったのだと勘違いしてしまう……。
 仰ぎ見るように、島全体とそれを囲う海を見渡す。
 ある者は水に沈み、ある者は状況も掴めぬまま事切れて、ある者は理不尽な環境によって命を喪い、ある者はこの自分の手によって殺された。
 今この瞬間も遺灰となって空と海に散り去ってゆく参列者たちの顔を、ひとりひとり、記憶に刻もうと思い返す。
 
「大江島に埋もれている歴史を掘り返す手がかりの一切を、自分たちが経験した惨劇を、……”ひとでなし”に堕ちてしまった参列者たちの変わり果てた体貌を。
 この島で起きたすべての真実を、人でない自分が罰して跡形もなく消してしまおうという決意です」

 一陣の風が炎を導くように空に昇っていく。
 向かい合う自分も汐留さんも表情を動かさない。秒針が一瞬だけ止まったように錯覚する、そのような体験に近い心情だった。
 
「記録の中に嘘偽りを挿む、あるいは真実への手がかりとなるものをあえて残さなかった方々の祈りというものを、自分も理解できた気がします。
 都合の悪い事実を、後ろめたい実情を隠したい。名も知らぬ後世の人々に弄ばれたくはない。例え過酷な現実とかけ離れていたとしても夢想してしまう、選ばなかった可能性。自分たちが置かれた惨状が少しでも綺麗なものであったのだと、やましさも悲しみもありはしなかったのだと。他でもない当事者たちこそ絶望の中にあった微かな希望を信じていたかったのだと思います。……勿論、自分のただの憶測に過ぎませんが」
「うわ凄い。すべての発言が探偵さんなら絶対に言っちゃいけない言葉だ。てかそれ民俗学者の俺も聞き捨てちゃダメな発言だー」
「探偵という職は調査対象の心情を考慮に入れるべきではありません。真実のみを追求する立場にあります。望まぬ形ではありますが、新しい知見を得たと割り切るしかありません」
「すげえ開き直りだー。犯罪やってる側の言い分だー。
 でも分かりますよ!歴史学なんてのはある意味現代人と当時の人々の、時空を隔てたいたちごっこみたいなもんです。好奇心旺盛なガキのまま大人になっちゃった変わり者たちが、昔の人たちがついた嘘の数々に翻弄されながらもその皮を引ん剝く快感の海に溺れようとしてるんです。そして何か手がかりや発見を掴む度に凄い!だとか、こいつ馬鹿じゃん!だとか、尊敬と愚弄を一緒に浴びせるんですから。そりゃ皆バレたくないことを隠すためなら努力を惜しみませんよね、胡麻化しますよねー。俺だって俺の罪状を握ってるはずの船野さんを殺しちゃったもん、まあ人違いでしたけど!」
「……自分と同じように、汐留さんも船野さんに一生をかけて償わねばなりませんよ。それだけは決して忘れてはいけません」
「船野さーんごめんなさーい」
「汐留さん」
「すごくすごーーーく反省してまーす!お盆になる度あなたのことをちょっとだけ思い出して、船野さんが持ってきてくれた飯と酒はマジで美味かったなあーって感謝しまーす!」

 汐留さんは両手で拡声器の形を作り、島の中央に向かって叫んだ。
 ……こちらとしても譲れぬ一点に関しては、不得手だとしても本島に帰還して改めて二人きりとなった際に、今一度口うるさくする必要がある……。

「流石に皆もう、全て焼け落ちて崩れていっちゃったんですかね」

 ふと、直前までの騒がしさが嘘であるかのように低い声色で汐留さんが呟く。
 この立ち位置からはよく見えないが、斜め後ろから覗く彼の表情はまるで電源を落としたかのように感情が抜け落ちていた。

「俺と大崎さん以外の参列者が全員死んじゃったなら、多分施主も死んだってことですよね。
 罪状を回収するために”施主が罪を酌量してくれる”って表現を使いましたけど、あれあながち本心に近いんです。全員知られちゃいけない罪の意識を抱えてて、普段は考えないようにして生きてきたわけですけど……やっぱり本当は怖いなーとか、許されたいなーとか、そんなの知ったこっちゃねえけど誰かが傍にいてほしいなーってずっと不安だったんでしょうね。俺も含めて、自分たちの本性ってやつに気付いた上で見て見ぬふりか、そもそも自分が善人だと本気で思い込んでいる人たちばかりでした。罪深いというか烏滸がましいですよねー。悪い奴は爪の先に至るまで全部真っ黒だってことです。まあ俺は光属性ですし?こんな自分が大好きなわけですが。
 ……結局本当に俺たちを罰してくれる存在は施主じゃなくて大江島だったんだろうなって思ってます。でも俺たちは生き残って無事に酌量されたわけじゃないですか。正直ラッキー!って思ってます。大江島最高!大好き!杏ちゃんありがとー!って。
 そう思ったけど……いざですよ?こうして罪ごと焼かれて、何もかも消えて無くなっていく皆のこと、それに大崎さんのことをよく考えてみたら……俺たちの罪って結局”裁かれ損ねた”って見方も出来ません?」

 熱気を帯びた突風が彼のネクタイを激しく靡かせる。
 自分は静黙を貫き、汐留さんの独白に耳を傾け続けた。

「以前の俺だったら絶対にこうは考えないし理解できない発想です。俺には寝る前、不安になる度”おやすみなさい”って声をかけてくれる大崎さんが傍にいてくれるだけでいいですし。あなたが居ればあとはどうでもいっかーって割り切れるようになりました。
 なのに大崎さんの方は今とっっ……ても苦しそうにしてるじゃないですか!お祖母さんの話も聞きましたけど、島での一件も加わって滅茶苦茶辛そうです。よく平気そうな面して生きようと頑張れるなーって逆に感心しちゃってます。すげーって思います。
 でも幸せじゃないですよそんなの。俺のことをとても甘やかしてくれるくせに、実際は嫌なことにばかり気持ちが囚われていて、ぜーんぜん俺のこと見てくれてない。そんなのダメです。ていうか俺は今とても嬉しくて幸せなのに、大崎さんがそうじゃないってのは嫌です。悔しいです!本当は俺のことどうでもいいんだって思ってま、」
「それは違います」
「はい?」
「誤解です。自分があなたのことを軽視しているなどと、そのような酷いことを言うのはやめてください」
「……」
「自分を、試しているんですか」
「ピンポンピンポーン!大正解!」

 ……。
 ……先程からしおらしいことばかりを述べて妙だとは感じていたが。
 自分の返しで機嫌を戻し、後ろに手を組んで歯を見せながら「にっ」と微笑む汐留さん。
 やられた。完全に乗せられた。まるで万華鏡のようにその在り方を固定しない、雲のような人だと再認識する。

「いやー、ちゃんと当ててくれて嬉しいなー!やっぱり大崎さんは名探偵ですね!
 そんな賢すぎる大崎さんに、今から俺はとても狡い問いかけをしちゃいます!いいですか?一言一句、怒らないで聞いてくださいよ?
 大崎さんは、俺があなたの運命だったんだって、本気で思ってます?」

 汐留さんの口から溢れた言葉の意味を理解するより先に、自分は心臓の拍動が一瞬止まりかけたような心地がした。
 顔の表には出していないはずの動揺を直感的に悟ったらしい。汐留さんは「あーあ」とため息をついてから大きく肩を竦める。

「勿論!俺の運命は大崎さんだっていう自信はあります。俺たち、パッと見ぜーんぜん真逆なのに、色々照らし合わせてみると……本当は案外似た者同士だったんだなってすげー運命感じちゃいます!こんな偶然ほんとにある?世間を騙して”人”の皮を被ってのうのうと生きてるケダモノが俺以外にも居たんだ!って。これに気付いた日を境にあなたのことすげー意識しちゃいました。あれ?俺この人のこと結構好きかも?って。一度意識しちゃったらもう大好きだなーってなったんです。反則ですね。
 あ、ケダモノって言い方は悪い意味じゃないですよ?気に入らないなら別の言い方もあります。鬼です。大崎さんはもう自覚済みですよね?
 俺の方はなー、監視役の大崎さんがわざわざ毎回市場前さんから鍵を借りて、俺のとこに頻繁に通ってくれたおかげで沢山お話したじゃないですか。そうしたら怒った有明さんが床をギシギシ鳴らしてやってきて!罪状の中身をバラして俺を”餓鬼”だって罵りましたよね。ご遺体を辱める、身内を食害するあなたに大崎さんを……とか何とか。有明さんの方こそ鬼のようにカンッカンじゃん!って、流石の俺でもカチンと来ましたけど。まあでも……有明さんに嫌われるのは仕方がないよなーって気持ちと、餓鬼ってまさしく俺のためにある言葉じゃん!っていう感動はありました。
 今でこそ俺、ちゃーんと有明さんに感謝してます。だって俺と大崎さんを結びつけるのにぴったりなお言葉を、嫌っているはずの俺に教えてくれた恩人なので!」
「……」
「やっぱり、あなたの運命は俺じゃなかったんだろうなー。は?有り得ない、マジで嫌だけど!?って感じですが、この大江島が俺の耳元でそう囁いてくるんです。だとしても俺の方には譲る気は全くありませーん。俺は大崎さんに一途ですし、大崎さんも俺の方を選んでくれたでしょ?じゃあ両想いじゃん!
 ただなー。実際のところ大崎さんの方はどうなんです?有明さんに未練残しまくりじゃないですか。入れ込みすぎてて怖いっていうか。友達の域をちょっと越えてる感じがするっていうか」
「そんなことはありません。自分が有明さんに懸想しているというのは、汐留さん、あなたの思い込みです」
「どうだかなー。口では何とでも言えちゃうしな―」
「汐留さん!」

 思わず語気を荒げ、その場にしゃんと立ち上がってしまう。くたびれて腰を下ろしていたはずのこの身体は自分の憤りに呼応するかのようにその力を取り戻し、二本の脚でその場に踏みとどまることを許してくれた。
 いつもより大きな自分の怒声に汐留さんはその両目をパチクリとするも、すぐに痛快さを隠しもせずに歯をむき出しにして笑みを作る。絡みつくような厭らしい頬笑だ。それなのに自分はそんな汐留さんも愛らしいとすら感じていた……。
 
「それならちゃんと証明できますよね?大崎さんにとって一番大切な人がこの汐留道雄なんだって、きちんと俺に誓えます?」
「誓います。どうすれば自分を信じていただけますか」
「それなら俺、明確な証が欲しいなぁ」
「証、ですか」
「自分を疑う相手から真の信頼を勝ち得るには、どんな代償を払ってでも誠意を証明して見せる!っていう気概を示す必要があると思いません?」
 
 そう言うと汐留さんはこの自分の左手の薬指をちょんと摘み、そのまま彼の口元にまで引き寄せる。その前歯に少しだけぶつかってしまうほど近くまで。
 直にかかる息がしっとりと熱い。ちろりと、薄く唾液で濡れた舌先が指の先を軽く舐めた。

 彼の内にある嗜虐性を無視してきたわけではない。ただ自分は彼に弱くなってしまった。己に向けられる滅茶苦茶な言動のすべてを許してしまうほど陥落していた。
 少し考えれば分かることだったのだ。
 彼はずっと、この自分を食したいという欲を抱えていた――……。

「本当は大崎さんのこと大大大ッ好きだから全部食べちゃいたいです!でもそれをやっちゃったら俺に”おやすみなさい”って言ってくれる人がまた居なくなっちゃうなーって。気付いたので思いとどまりました。凄い!俺偉すぎ!
 それにですよ、大崎さんの居ない世界なんて絶対に退屈で、味気なくて、死んで会いに行った方がマシじゃんって思うくらいに寂しいに決まってます。だってもう俺にはあなたしか居ないんですもん。俺マジでいい子にします、あんまり我儘言って困らせないようにちょっとは努力します!
 そうです、ちょっとは努力……したんですけど。だけどやっぱりどうしても、大崎さんのこの場所だけは俺に分けて欲しいなーって我慢できなくなりました!普段なら何も聞かずに問答無用で食っちゃうところだけど、ここだけは大崎さんの意思で、俺にあーんってしてほしいです!いいでしょー?ねっ?」

 汐留さんは瞳を閉じ、自分の指先を丸く咥えて軽く吸う。じゅう、と焼かれるような刺激。風がかき消す程に小さな音であるはずなのに、この耳は鮮明に拾い上げていた。
 彼の瞳が薄く開かれる。官能的な眼差しだった。

「大崎さんのここ、俺にちょうだい?」

 情交の一場面を連想させる、短い瞬きだ。
 そのような行為など、自分は未経験であるというのに。
 強い既視感が脳を侵してやまない――
 
「貴方が望むのでしたら、自分のすべてを差し上げます」

 迷いなどありはしない。挑発するように、隣り合うものも含めた三本の指を彼の口内へ深く突き入れる。
 眼を丸くして苦し気に喉を震わす汐留さん。ぽかんとしながら無言のままでこちらの左手首を掴み、ゆっくりとした動作で口許から離している。
 ……奥まった場所の、湿気で満たされた熱い肉に、自分の胸中は名残惜しさを残した。

「ほんとに?良いの?俺が貰うのは指一本ですけど、始めたら大崎さんがいくら痛がっても止めません。ガブッて食いちぎりますよ?それでも良いんですか?」
「その痛みがあなたを貰う対価だというのなら安いものです」
「ぐすっ……大崎さぁーん!!」

 汐留さんは目に涙を溜めると、勢いよく自分に抱き着いてきた。倒れそうになるのを踏ん張って背を擦ってやると、彼は独特の笑い声を漏らしながら身を離す。
 汐留さんはそのまま流れるように動いて、自分たちが作って携帯していた簡易の風呂敷の中を探り始める。そして「あ!」と短い声を発すると振り上げるようにそれを取り出した――短いながらも、鋭く鈍色に光る刃を。
 
「これ、有明さんが隠し持っていたナイフです。今からコレをあの炎で熱してきて、指を嚙みちぎった後に先端の面をあてて大崎さんの傷を無理矢理焼こうと思います!後処置もバッチリ!」
「火に近づくのは危険ではないですか」
「平気でーす!すぐに戻ってきますから逃げずに待っててくださーい!」

 そう告げると汐留さんは自分の返事を待たずに燃える小屋へ向かって全速力で走り去ってしまう。せわしい人だとその背中を見守っていると、あろうことかナイフを握った手をそのまま火の中に突っ込む姿が目に入った。思わずぎょっとする。「ぎゃー!あちー!」と甲高い悲鳴すら聞こえてきたぞ。大丈夫なのだろうか。
 暫くすると彼は熱したナイフを握ったままこちらに帰ってくる。ほむらの色で縁取りながら内側を白く発光させる刃が、夜闇に浮かぶ灯篭が如く煌めいていた。

「準備完了!出来立てのあっつあつです!」
「手をそのまま火に突っ込んでいたように見えたのですが、お怪我はありませんか」
「いやホントそれ!マジで熱かった!袖も焦げたし!でも大崎さんの覚悟が揺らいじゃう前に急いで戻らないとなーって。つまりは大崎さんのためを思ってです!うわー俺すげー健気じゃん。これは責任取ってもらわないとだなー」
「自分の気持ちが揺らぐことはありませんよ」
「そんなの分からないじゃないですか。俺だったら逃げるもん。痛いの絶対にイヤ。だから善は急げってやつです!
 あー腹減ったー。もうそろそろ良いですよね?俺すんごく我慢しましたもんね?」

 恍惚としてこちらを見据える汐留さんの手に握られるそれ。まるでテーブルナイフだと他人事のように思いながら、無感情のまま目だけで切っ先の軌道を追う。
 汐留さんの感情の熱が高まっている様子が伝わる。今の自分はまさしく生きたまま皿に盛りつけられた魚介だ。反射的に左手の薬指が疼く。踊り食われる生物も、蠢けば蠢くほど一層新鮮であると感じられる――……。
 
「大崎さんのその手で、俺にあーんってしてくれません?」

 ねだるように大きく口を開いた汐留さんが自分に向けて身を乗り出してくる。
 今度こそ左手の薬指のみを前に突き出す形に変える。残りの指の腹と掌で汐留さんの顔面を覆いながら、彼が求めるものを躊躇うことなくそっと口内に突き入れた。微笑みかける彼の熱い息で濡れた部位の根本に圧と激痛が襲う。手指に食い込んでゆく並びの乱れた歯列を目に刻みつける。体を突き抜ける戦慄に思わず瞑ろうとする瞼を懸命に堪えた。
 ――瞬きすら許さない。この眼球にこそ、汐留さんの一切合切を記憶せねばならない……。
 ぶちりと鈍い音が頭に響く。汐留さんは咀嚼しながら巧みにナイフを構えると、平らな面を切断された部位に器用に押し付けた。じゅっと焼ける音と共に悪寒が脳天まで走る。彼のもう片手は椀の形で下に添えられ、ぼたぼたと滴る血汐を少しでも落とすまいと努めていた。
 傷が塞がったのを確認すれば、彼は天を見上げて掌に溜めた深紅の液を呷る。口に収まりきらぬ一筋の骨を上下の歯で挟んだまま、雨水を浴びるように飲み干した。己の一部であった塊が貪られる様を眺めるというのは中々奇々怪々な体験だ。自分でも驚くほどに淡然たる心持だった。
 すべての肉を飲み込んだ汐留さんは舌で前歯と唇を舐めあげ、残された骨を口から離す。どうやら噛み切れなかったらしい、歯型は刻まれているが想像よりかは欠けることなくその原型を留めていた。

「……いひひ、ご馳走様です!気分はどうです?痛いの辛くない?」
「大丈夫です、これしき耐えられます」
「うはー、ついさっきまでちゃんとした形だったのに。指が一本無くなるってだけですげえ変な感じ。違和感とかマジで無いの?」
「いえ……」

 薬指が欠けた左手を空に掲げる。
 本来五指に宿るのは嫉妬・貪欲・愚痴・智慧・慈愛だという説があるが、鬼の手には三本しかそれがない。前者の三毒のみを有しているということだ。しかし例外として四本指の鬼も存在する――有名なのは酒呑童子だろう。化けた美男子の姿から鬼へと戻るその間に、人を模した五本の指からひとつ欠けるあの絵巻を知った日の衝撃は今でも強烈に記憶の片隅に残っている。いずれにせよ五指の内の一本でも欠ければ、もはや鬼の象徴と同一なのだ。
 この爛れた手が唯一”人”を象っていたものの一部を自らの意思で切り捨てた。だというのに今はとても清々しい。それはきっと、自分のような不道徳な男にも宿っていたかもしれない慈愛という善性を――
 
「むしろこの形はしっくり来ます。何より他ならぬあなたに渡せたことを、とても嬉しく思うのです」
「へー。痛いのが好きだなんて大崎さんは変わり者ですね。マジで変態なんじゃないですか?」

 学者である汐留さんなら思いつくかもしれないと考えていたが、どうやら気付いていないようだ。それでいい。重要なのは汐留さんの中で消化されひとつになる――彼の血肉となって届くことなのだから。
 こちらの思惑など露知らず、汐留さんは握った骨をくるくると弄び、時折それを齧っている。

「あ~どうするかなー、骨は口寂しくなったらしゃぶる用に残すかなー……いや!やっぱり家に着いたら砕いて食べることにします。全部俺の中に入れたいですもん」
「持ち帰る前に警察に見つかったらどうするんですか」
「大丈夫です!上手く隠します!万が一バレたら「骨さえあれば再生して後からくっつけられるんじゃね?」って動揺してつい拾っちゃいました~って言い訳しますんで、大崎さんも口裏合わせよろしくお願いしますよ~。
 あ、そうそう。左手の薬指を選んだのにはちゃーんと理由があるんです。有明さんの腕を持ち帰った際に指輪の存在に気付いて、へー、有明さんって結婚してたんだー……ってふと思ったんですよ。そんで続けて大崎さんのことを考えたら何故だかそこが無性に欲しくなりました!ホント何でなんですかねー。
 ま、ともかくこれで俺の一部は実質大崎さんってことになりますね。つまりは真の共犯!まさに!一蓮托生!ってやつですね~」
「!」
「これなら少しは怖くなくなるんじゃないですか?余分な罪の意識、何だか軽くなりません?」 

 ――、
 汐留さんは今、何と。
 彼は今、島を殺した大罪人である自分の、あなたのものではない罪状すら共に分かち合うと、そう言いはしなかったか。
 
「あーあ、俺この人と同罪かー。ヤバい、すげえ重罪じゃん。実は俺ってとんでもなく馬鹿だった?あの學國大学の首席なのに?
 本当なら死後の俺は外国の宗教でいう天国って場所に行けたはずなのに、これで大崎さんと二人仲良く地獄行きです。やだなあ、閻魔から罰が下るの確定してるって考えると今からすげー気が重くないですか?せめて悔いの無いよう生きてる間に一緒に思いっきり幸せ噛みしめるしかないですねー。そうは思いませんか大崎さ、」
  
 もう堪え切れなかった。血と大罪に塗れきったひとでなしが決して望んではいけないことだったのに。今この胸は痛みを越えて、跡形もなく焼かれるような救いの境地に激しく震えていた。
 汐留さんの襟元を掴みこちらに引き寄せ、欲のままにその唇を貪る。よく回るその舌をいっそ嚙み千切り吞み込んでしまいたいとすら考えてしまう。自分の方こそ彼の一部を食らいたいと本気で思っているのだ。なんて醜い獣だろう。自分は今”どちら”であるのか。もう分からなくていい、ただ目の前のこの男を慈しむように蹂躙したいという切迫した想いがこの身を支配している。
 こちらに応える舌のすべてを奪うように音を立てて強く吸うと、汐留さんの体はビクリと大きく震える。感じてくれているようだ。生来備わっていないと思い込んでいた肉欲に自分でも脾腹を突かれた気分だが、このまま先に進むのは少なくとも今ではないと自制を働かせねばならない。
 暴れ狂いたいと叫ぶ衝動を律して重ねた唇を離し、まっすぐに彼の目の奥を射抜く。逸らす気など更々なかった。
 
「自分の身勝手な我儘に巻き込んでしまって申し訳ありません、汐留さん。
 返し切れぬ程の御恩ですが、せめてもの償いです。自分は運命として他ならぬあなたを選びました。最期の時のその先まで、あなたと共にあると誓います。
 いつか本当に神仏に裁かれて死ぬ日が来たならば、二人で抱き合いながら焼かれましょう」

「……」
「……何か、言葉を返してくださいませんか」
「……わー、うわあー……すげえ口説かれ方されたっていうか……大崎さんからそんなクソ恥ずかしい台詞が出てくるとはいくら俺でも想像できなかったなー……」
「駄目でしたか。自分は何かまずいことを言ってしまいましたか」 
「いーえ全然!超感極まってます!いやー今日暑いですね、火の勢いもやばいし熱風のせいで顔あちー!茹で蛸かー!?」

 汐留さんはパタパタと手で顔を扇いだと思えば、次はにこにこと綻ばせ、自分から離れて船着き場の足場の端を綱渡りでもするかのように両腕を広げながら歩き始める。
 危ないからと制止するも聞く耳など持ってはくれない。時折バランスを崩す彼の姿にひやりとするが、落ちてしまったその時は自分が身を張って助けるつもりだ。恐らく彼も理解した上で遊んでいる。全く仕方がない。

「なんだか大崎さんにはいつも甘やかしてもらってばかりだなぁ~、いつか俺アイスクリームみたいに融けちゃうんじゃない?
 そうそう。実は甘えるのってコツがあるんです。俺って距離感取るの上手いから!俺と相手が対等じゃないっていう大前提を常に念頭に置いといて、相手に「自分の方が優位だ」って勘違いさせるんですよ!そして俺に愛着が沸くように上手く誘導するんです!すると俺は餌を貰えて嬉しいし、相手は勝手に優越感に浸ってくれます。まさに相互利益、持ちつ持たれつの関係ですねー。
 でもそういう仲ってなんか寂しくないですか?だってソレ対等じゃないもん。ただの支配と被支配の縮図です。同じような存在じゃないと真には理解しあえないんです。その点では俺と大崎さんは違いますね!甘え合っても基本同類ですし。何かすっごく安心できます。そうだと思いません?
 大崎さんの鬼さんはもうひとりぼっちじゃないし、俺のクソ餓鬼にも大崎さんがいます!大崎さんが辛いときに俺を求めてきたら、今度は俺が大崎さんのことをうんと甘やかしてあげましょう!普段は当然甘える側の俺ですが、もし大崎さんが弱っちゃったら遠慮せず!いっぱいおねだりしてくださいねー。俺多分噴き出しちゃいますから」
「汐留さんの話は最近似たような経験をした覚えがありますが、最後におっしゃった構図は自分には全く想像できません」
「またまたー」
「……機会があれば試してみようと思います。機会があれば」
「そう言っていられるのも今の内ですよー。どうせ試す以前に自然とそうなっちゃいます。マジの本気で確信です」

 どんな自信だそれは。ならない。絶対にそこまでの醜態は晒さないぞ。 
 自分の考えることなど余所にして、ぴょんぴょんと大きく跳ねながら汐留さんはこちらに駆け寄ってくる。子どもたちがよく道端で遊ぶケンパを連想させるような軽やかな足取りだった。

「いひひ!何だか俺!無性に楽しくなってきちゃいました!ねえねえねえ、大崎さん!このまま俺と踊ってくれません!?」
「申し訳ありませんが、今の自分はあまり細かな動作をするのが難しいかと。止血したとはいえ指はひとつ失われていますし、そもそも不馴れです。共に踊ることなどとても、」
「じゃあ棒立ちして俺の手を取ってくれるだけでもいいです!俺が勝手に大崎さんの腕を動かして遊んじゃいます!」
 
「ね?良いでしょ?」と目を細めて、あどけない面差しで両腕をこちらに伸ばし、招き入れるかのようにてのひらを差し出してくる汐留さん。その背後では勢いを増して渦巻く猛火が、天を衝くかの如く高らかに咆哮を上げていた。
 視界のほぼ全てが緋色で満ちている。島も、森も、焔光を一身に浴びる汐留さんも。
 今映るものたちは、本当に現実のものなのだろうか。この世の終わりのような大江島の有り様とは裏腹に、汐留さんの姿のみを凝視すれば名状しがたい淡い想いばかりが去来する。
 自分は眠る彼が見ている夢の中に、支離滅裂な白昼夢の只中に迷い込んでしまったのではなかろうか。思わず頬をつねって確かめたくなるが、いくら色恋に疎い自分でも今この手を伸ばすべき先はきちんと理解していた。
 左上肢の先から走る痛みに耐える。両の腕を少しだけ上げて、汐留さんの誘いの手をとった。
 すると彼は破顔してこちらに歩み寄り、歌いながら好き勝手に躍り始める。おそらく作法などお構いなし、気分次第の無茶苦茶な即興だ。
 自分は一歩も動いていないが、肩の力を少しだけ抜いて、汐留さんのやりたいことに合わせられるよう上半身の自由を委ねることにした。
 汐留さんはふたり分の両の指を絡ませたまま思い切り両腕を横に伸ばして体を波のように揺らしたかと思えば、今度は互いの片手のみを頭上に持ち上げ、彼が軽く握る手の甲を自分の掌で覆い被せる形に変え、触れるようにして繋がった片腕を軸にしながら目を伏せたままでくるりと舞う。
 彼の体が回旋する最中、偶然にも視線が絡み合う数秒にも満たない時間があった。こちらを見詰める瞳が果実のように熟していると気が付いた。汐留さんはほんの一瞬だけ、普段の彼からは想像もつかぬような年相応の大人の笑みを覗かせた……。
 
 今、汐留さんが唱している曲は聞き覚えがある。
『口笛の少女』――青海さんが作曲し、大江杏が出演作で披露したという。汐留さんもかなり気に入っているのか、島の探索中でも度々この旋律を口笛で鳴らしていたと記憶している。彼の歌声伝いでその一節一節を耳にする自分のような武骨な男にも、とてもうつくしいと感じられる調べだった。

「らららっらららっ♪~……らんらーん!」
 
 突如背中をしならせ重心を後ろに反らすものだから、倒れてしまわぬようにと慌てて離した左手で汐留さんの腰を抱く。一本欠けた掌で彼の体重を支えるのは容易ではない。焼いた箇所に鋭い激痛を感じながら、それでも決して落としはしまいと堪え抜いた。
 そんな自分の焦りにすら汐留さんは「気付かなかったなー!大崎さんの困った顔って実は滅茶苦茶可愛かったんですね!」と声を上げて笑い出し、悪ふざけだと言いたげにべえっと舌を見せつける。しっとりと濡れた淡い紅の色だった。
 次は勢いよく反転させながら身体を起こし、上に曲げた両手の甲をこちらの爛れた掌に重ね、背中から倒れ込むように自分の胸に体重を預けてくる。そのままの姿勢で互いの指を軽く絡ませ合わせると、すっぽりと収められた身体は拍を打つかのように小刻みに揺れ始めた。どうやら舞踏はまだ継続中らしい。
 ――まったく。汐留さんは心が望むがまま、何一つとして気の利いた動作も返せぬこんな自分と戯れている。
 本当ならば悪性を抱える人殺しで食人鬼であるはずなのに、今自分の胸に存在する彼は無垢な幼子そのものだ。

 島の奥から地面を揺らす程の音が響いた。施設があった場所だろう。森を侵していた炎が何かに触発されたのか、泡が弾けるように大きく爆ぜたのだ。汐留さんはその遠景に感嘆の声を漏らしながら、その眼をより一層開かせてきらきらと輝かせている。

「わはー!やべー!大崎さんにもちゃんと見えてますよね!?ぱちぱちと鳴る無数のちっちゃな音と、ごうごうドォーンッ!とヤバすぎる空気の振動を立てまくって、全てが燃えて何もかも消え去ってしまう大江島の火葬がすげえ神秘的だー!
 俺たちとんでもなく罰当たりなことをしたっていうのに、特に俺なんて一応専門の学者だから、ホントなら泣き喚いて、惜しみまくって、両手をばたつかせてなけなしの消火活動でもしなきゃ駄目な立場だっていうのに!……それなのに!今はなんか言葉にならないっていうか……いっそこんな事態になっちゃったならもうどうしようもないんだし、深く考えずに楽しんだ者勝ちするしかあり得ねー!って感じです!イヒヒ!」

 ――成人も過ぎた喪服の男二人が、火の粉を舞わせて激しく燃え立つ島の船着き場に立ち、緋色に染まらせた身を寄せ合って型破りに踊っている――しかも一方は仏頂面のままで一指が損なわれた赤い掌を翳し、もう片方は愉快そうに歌い時折高々と歓声を上げて笑うのだ。端から見れば何と異様な光景だろう。人の皮を剥いで被る悪鬼たちの小さな宴に映るだろうか。
 生者も故人も神仏もーーもしもこの場に観客がいたならば、指を指して小馬鹿にするか、苦虫を噛み潰したような顔で睨んでいるか、気味が悪いと早々に立ち去るかに違いない。

「楽しいですか、汐留さん」
「俺ですかー!?訳分からないくらいサイッコーの気分ですよー!大崎さんはどうです?楽しくない?」
「楽しそうに笑うあなたに見とれていました」
「え、凄い口説き文句だ」
「……汐留さんのような方の耳でも、ちゃんとそのように届きましたか」
「はい!まるで大好きな恋人に向ける大根役者の寒い台詞みたいで……ってアレ?俺たち既に灯台で一応ヤってはいるし、さっき告白しあってるし……俺たちってもう既にそういうことでいいんですよね?合ってますよね?まあ今はどうでもいっかー!楽しけりゃそれでいいってことで!ヒャッホー!」

 ……途中に身に覚えのない、謂れのなさすぎる類の話が聞こえた気がする。それに少々貶されていなかったか?更に言うなら一世一代の誠意を込めた自分の告白の意味は。
 ……。……まあ、いい。どうせいつもの汐留さんの気分屋発言なのだろう。自分は彼よりも大人なので聞き流すことにした。

「あ!まだ遠くですけど船が見えてきましたよ!二人だけの甘~いひとときもそろそろ終わっちゃいますね。大崎さんのお義父さん、無事を祈りすぎるあまり船の上でもう号泣しちゃってるんじゃないですか~?」

 言われるがまま八丈島の方角を見遣る。確かに灯りが一つ、この大江島に向かってきている。参列者たちが喉から手が出るほど欲していた希望がようやく姿を現したのだ。彼らの肉の器を代償に上げられた狼煙によって。……無情なほど皮肉な話だと自嘲した。
 
「きっとそうだと思います。新木場さんと品川君には酷く……酷く心配をかけてしまいました」
「船が到着しちゃったら大崎さんは完全に台場さんの代理じゃなくなって、お義父さんと後輩さんのもとに帰っちゃうんですもんね。お互い絶対慌ただしくなるだろうし、次に偶然本島で会うときまでお話しする機会なんてもう無いんだろうな~」
「落ち着いたら必ず、汐留さんの在学する大学まで迎えに上がります」
「……。はーい、お待ちしてまーす」

 汐留さんにしては妙に歯切れが悪い声色だったが深く追求しようとは思わなかった。落ち着きがなく気まぐれな男ではあるが、最後には自分の傍に駆け寄って離れることはないだろうという勝手な信頼があった。
 
 

「……って、ああーッ!そうだそうだ!大崎さん大崎さん!まずいです、とても大切なことを忘れていますよ!やばいです!」

 ……。
 一秒前のしんみりとした雰囲気を砕いて壊すような大声量だった。
 汐留さんは自分と繋いだままの両手をバタバタと上下に振り回す。あまりにも大げさすぎる動きだから滑稽な劇を見せられているようだとも感じたが、それ以上に自分はぽかんと呆気に取られている。
 
「大切なこと、ですか?」
「そーです!こんなに大事な事をどうして忘れちゃってるんですか!?今日が一体何の日なのか本……ッ当に分かっていないんですかー!?」
「何の日……?」
「……あー、そうだぁ……この探偵さん、ちょっと廃人期間があったから正確な日数を数えられていないんだったぁ……」
「すみません、十月だということは把握しているのですが……自分が島に到着してから二週間は過ぎているものと思われます。しかしそれ以上は」
「え!そこまでたどり着いてるのに肝心の答えは解き明かせてないの!?嘘でしょ!?大崎さん頭良さそうに見えて意外とお間抜けさんだったんですね!ご職業何でしたっけ!」

 ……先ほどは名探偵だと褒めていたくせに、ひとつ明かせぬ謎があるだけでここまで貶されるものなのか……。
 しかも「あれ?もしかして俺の方が間違ってます?ちょっと待ってくださいね?」と、繋いだ手の片方をわざわざ離してまで指で数え始めるのはやめてほしい。こちらを置いてけぼりにしないでくれ。
 しかし本当に頭の回転が速すぎるというか、よく回る口だ。もう一度塞いでやろうか。

「……いや、合ってるじゃん。やっぱり今日じゃん!
 でもそうでした、かくいう俺も今朝まではちゃんと覚えていたのに、今日は色々あったから今の今まで忘れてましたぁー……ごめんなさい大崎さん……俺暗記と暗唱とホラ貝みたいなデカい声だけが取り柄なのにー……。
 でも聞いてくださいよ、俺、珍しく我慢したんですよ!?いつもだったら遠慮なんて微塵もしないのに。全くもー。今日の内に帰れる可能性が少しでもあるのなら最初は大崎さんのお義父さんが良いんじゃないかなー、帰れなくても夜言えばいっかーって考えて、朝は敢えて触れなかったんですよー……誰かに気を遣うなんて絶対あり得ないこの俺がです!おかしいと思いませんか!?」
「それは……確かに、由々しき事態ですね……?」
「でしょー!?」

 どうしてそこで新木場さんが出てくる。話の概要が一切掴めない。
 自分は揶揄われているだけなのか、それとも本当に何か深刻な事柄が頭から抜け落ちているのか。汐留さん相手だからこそ判断が難しい。
 
「はぁー。まあいいです。気遣いとかそもそも馬鹿らしいし俺らしくもない。慣れないことなんてするもんじゃないですね。もう間もなく到着するであろう大崎さんのお義父さんには悪いですけど一番乗りは俺がいただいちゃいます。いい感じに祝福の火も点いてますしね、規模デッケーけど。
 それじゃあ探偵さんに俺が真実を教えてあげます。というかそもそも最初に今日がこんなに大切な日なんだって教えてくれたのは大崎さんじゃないですか!まあ俺が雑談のネタとしてさりげなく聞いたってだけの話なんですけど」

 そこまで言われてようやく少しだけ思い出す。確かに汐留さんから何か自分に関わる日付の話を尋ねられたことがあった。有明さんの一件で気分が優れなかった頃の出来事だ。上の空であった自分はあのとき何を聞かれ、何と答えたのか。
 彼はぐっと顔を寄せ、目を輝かせて言葉を続けた。
 
「大崎さん、今日はなんと!十月XX日です!ここまで言えば、いくら鈍感な大崎さんでも流石に分かりますよねー?」

 その日付を耳にして、あ、と気の抜けるような声が口から洩れる。もしも自分が不愛想な男でなかったならば、呆気に取られたことすら隠せぬ程に間抜けな顔をしていたに違いない。参列者の一人からも似たような問いかけをされた覚えがある。あれは確か九月のこと――

『君は今、何歳かね』
『二十二です。来月で――』
 
「パンパカパーン!大崎さん!二十三歳のお誕生日、おめでとうございまーす!」

 汐留さんは威勢よく繋げたままの両腕を上げ「バンザーイ!」と高らかに叫んだ。自分の方が背が高いため彼は稚児のようにぶら下がりはしゃいでいる。
 比べて自分は、彼から放たれた予想外の祝福に思わず息をのんでいた。面を食うとはまさに今の自分の状態を指すのだろう。大江島を訪れてからの時の経過の実感。出会って半月ほどしか満たぬ他者が、穢れた経緯によってこの世に生まれ落ちてしまったはみ出し者の生を、心から祝ぐという現実への動揺。その狭間で、心は波のように揺れている。
 無性にこの顔面を爛れた掌で覆ってしまいたい。嵐が過ぎ去った後の空から射す陽光を見上げた時のように穏やかな情感だ。何故こんなにも心は解けているのに目頭が痛むのだろう。理解が追い付かぬ感慨だった。
 
「いやー!めでてー!大崎さんの生誕二十三周年にカンパイ!こんなくそったれた世の中にあなたが生まれ落ちてきてくれた奇跡に感謝です!何で俺の方がこんなに嬉しそうなんですかね!自分でもよく分からねーや!ほら、大崎さん笑顔笑顔!喜んでるならちゃーんと笑おうと努力してくださいよ!
 いひひ!俺!今死んじゃうんじゃないかってくらいに、すげえすっげーーー幸せです!大好きでーす!」

 ……生誕という言葉は本来生者に向けて使うべき単語ではないが、まあ、そんな細かいことはどうでもいいか。
 取るに足りない、当の自分ですら、今までの生でずっとどうしようもなく後ろめたさを感じていた事柄のはずなのに。
 汐留さんがこんなにも喜んでくれる様を見るだけで、この胸は溢れるほど満たされて、灰色一色の世界が色付いてゆく心地がした。
 
 繋ぐ掌から伝わる熱さ。
 例え神仏が顕現し、この身の拭えぬ罪を罰するその日が訪れようとも、
 ……緋に全身を照らされていても分かるほどに頬染めて、笑うあなたのいたいけな姿を。
 自分はこの生涯の先も、決して忘れることはないだろう――……
 

「――大崎さん!生まれてきてくれて、本当にありがとうございました!」

□昭和30年 9月末 (おまけ)

「ここまで戻ってくれば流石に安全ですね。はー、重かった!胴体じゃなければどうにかなるかなって思ってたんですけど考えが甘かったです。全体の体重自体は軽いんじゃないかと踏んでたんですけどねー」
「……」
「ちょっと休んでから缶詰開けましょ。新橋さん面白いんですよ〜、サバ缶・サバ缶・サバ缶!竹芝さんがコレを見つけてたらノリ良くツッコミ入れてそー。「ネコちゃんかいな!」って」
「……」
「“有明さん“の方は大丈夫です?どこか崩れてたりしてませんか?」
「……大丈夫です。汐留さんが上着を貸してくれたおかげで、綺麗に包んでここまで運ぶことが出来ました」
「ソレ返さなくて良いですからねー。八重垣から逃げる時に大崎さんが持ってきてくださったから受け取っただけで、捕まっちゃった時点で一度は手元から無くしたものです。それに汚れもすげー増えましたし、改めて着るのはいくら俺でもちょっと抵抗感あるなー」
「……はい」
「俺席外します?ぶらっと周りを見に行っても良いですよ。この島、まだまだ面白そうな場所がたっくさんあるはずなんです!」
「駄目です」
「駄目って?」
「……ここに、汐留さんもいていただけると」
「……あ〜……、ハイ。分かりました。じゃあ体力温存というコトでテキト~に、持ってきたモノの整理と確認でもしてますね。今日は久しぶりのご馳走です。新橋さんが尻尾を逆立てて森の中にやってこない限りはゆっくり出来ますから、何か用が生えてきたら声かけてくださーい」

 壁に凭れて、膝を抱える形で座り込む。
 この腕に抱いているのは、汐留さんの上着で巻かれた球体のもの。
 今はその中身が殆ど見えない。少しだけ、布と布の間から、乾いた血液がこびりついた毛の束が飛び出している。
 自分は今から、この布を解いて、彼と向かい合わねばならない。
 彼に、謝罪と、別れを告げねばならない。
 一度決意したからこそ、彼は今ここに在る。
 なのにいざ指で触れようとすると、この両手の震えは増して、直視したくない現実を頑なに拒んでしまう。

 ……息を、大きく吸う。あるはずもないキャラメルの匂いを感じた。
 震える左手で、大きく揺れるもうひとつを押さえながら、片手で器用に包みを開ける。

 ……。
 有明、さん……。

 筋が硬直し、青ざめた膚。
 ふわふわとした晴れの笑みは、命と共にこの肉塊から抜け落ちてしまった。
 自分に彼を想って泣く資格は無い。
 近くの有明さんより、遠くで溺れていた汐留さんを助けた。
 二人ともを助けることができたなら、この心はどんなに軽やかだったのだろう。
 ……有りもしない夢想だ。なんて誘惑的な御伽話だ。
 それを選ばなかったのは、掴み取ろうと一心不乱にもがき切れなかったのは、他でもないこの自分だというのに。
 
 有明さんを抱き抱え、生気の失せた彼の顔をじっと見つめる。
 有明さんを食した参列者たちは、どのような想いで口につけたのだろう。
 彼を飲み込み、その肉が喉を下った時、ほんの少しでも悼みはしたのだろうか。

 ーー生きるために、他者の肉を食らうしかない現状。
 自分もまた、同じ決断を迫られている。
 
 新橋さんの非常食を……汐留さんが、拝借、したので、このままいけば数日間は保つ。
 新橋さんが取り返しにやってくる可能性もあるが、あの男が己の非常食の存在を打ち明けて他者に協力を求めるとは思えない。
 ましてや、銃を所持しているとはいえ、得体の知れぬ森の中、敵地にたった一人でやってくるなど……。
 この灯台は一度気づいてしまえば目立つ存在だが、敵と鉢合わせるとすればもっと中心部から近い場所になるはずだ。
 
 選択。
 有明さんを、食うか、食わぬか。
 汐留さんはああ言ってくれはしたが、彼ならきっと数刻もしない内に有明さんを食べてしまうだろうと簡単に予想がついた。
 汐留さんは食人に対して抵抗がない。
 せっかく手に入れた収穫を手放す道理は、汐留さん側にはどこにもない。
 ……兎にも角にも、少なくとも新橋さんの非常食は後に回すべきだ……。
 頭では理解している。
 けれど食人という人の道から外れた行いを、その対象が有明さんであるという現実を、どうしても受け入れることが難しい。

 視線を泳がせた末に、自然と汐留さんの姿に目が留まる。
 汐留さんは窓から遠くを見渡している。潮風が彼のはねた髪を揺らしていた。
 食人を躊躇わず、むしろ身近なもののように感じているふしがある汐留さん。
 彼はどのようにこの世に生まれ落ちて、どのような生を辿り、今の人格を形成したのだろう。
 人を食せばひとでなしになる。表面だけでも取り繕おうとしても、健常な人ならば生理的に拒絶反応を起こし、精神が自壊していくだろうと想像できる。
 けれど普段の汐留さんは、人を食した経験を持ちながら、奥底にある人ならざるものを隠すためにわざとらしく奇人として振る舞えている。
 己の内の狂気を自覚したままで普段は無力な常人に成りすまし、昂りが増せば感情のまま煩悩に身を委ねてその怪物を曝けだす。
 明晰な頭脳と悪戯心、悪性。他者との距離を測り、“変わり者”として人に擬態し、人間の社会に溶け込んできたはずだ。
 ……そんな汐留さんは、人を食するとき、何を思いながら召し上がるのか。


 ーー俺はね、例え死んじゃっているとしても、その人たちの体の一部を抱き締めたり、肉や骨を食べるとほんの少しだけ安心できるんです。そりゃ飢えを満たせば死は免れますし、腹が膨れれば機嫌が良くなるって場合の方が多いですけど、そういう話じゃなくて
 ーーその人が大事な人であればあるほど、死んじゃった後でも俺の傍にいてくれるみたいに感じられるようになったんです。悪いことだし裁かれるべき罪なんだって分かってはいますけど、ひとりでいたり、悩み込んで塞いじゃうよりかはずっとどうにかやっていけるんです。守ってくれてるんだろうなーって信じられるから俺は笑っていられるんです


 先ほど告げられた彼の秘密が、記憶の海に波を立てる。
 死者の肉を食らうことで、その対象が自分の傍に在ってくれるのだという錯覚。
 喪われた大切なひとを、自分の血肉として、大罪の烙印として、忘れぬために己に刻む、一種の自傷行為ーー……

 落雷を受けた心地だった。
 酷く間違っていることだと、許されないことだと、進めば戻れぬ一線だと、分かってはいるのに。
 心臓が五月蝿い。呼吸も荒くなる。この動悸で死んでしまうのではないかと考えてしまうほどだ。

 汐留さんから目を逸らし、もう一度、膝に抱えた有明さんの顔を見下ろす。
 男にしてはとても、とても綺麗な人だった。
 台場静馬の代理として大江島に向かう道中で、最初に出会った参列者。
 今にして思えば、どこか懐かしさのある面影ーー……。

 ……。
 …… ……。

「汐留さん」
「はーい?」
「食べましょう」
「お!ごはんの時間ですね!やったー!新橋さんのお恵みにも感謝です!新橋様バンザーイ!今頃秘蔵の飯が綺麗に無くなってることに気がついて涙目になっているであろう新橋様バンザーイ!!もしもう全て切らしていたら生きたままの島の蝶を食べるしかないかな~と、そういう最悪の状況も考えていたので。今回の収穫の大きさがとてもありがたいでーす。
 いひひ、サバ缶サバ缶〜。本当だったら俺ひとりで腹一杯食いたいところですけど、桃太郎の大崎さんが居ないと俺寝れないし……缶の数自体も多くはないしで仕方がないかぁ……ひとつだけ開けて分け合う感じでいいですかー?」
「違います」
「ほぇ?」
「有明さんを、食しましょう」


「もう良いんですか?思っていたよりもずっと早かったですね」
「自分の意思で決めました」
「顔スゲー真っ青なのに?」
「むしろ今じゃないと、この勇気は萎んで二度と表に現れないと思われます」
「じゃあ今しかないじゃん!早く食べましょう!」

 汐留さんは非常食を室内の隅に集め、別に分けて置いていた“有明さん“の方に移動し、腰を下ろして物色するようにそれを凝視し始めた。

「大崎さんは初めてですもんね〜。それだったらまだ腕の方が抵抗ないかなぁ。有明さんは痩せ型だったからお肉自体はそんなに多くはないですけど、俺たち二人の命を繋ぐだけだったら暫くは何とかなります。非常食もあるしで心はぽかぽかです!
 ……あれ?有明さんの手、指輪がある。これ左腕だし薬指だー……んー……?
 あー……有明さんって既婚者だったんだー……。
 ……へー……」

 汐留さんの独り言とその様子に多少の違和感を覚えたが、自分はあえて気にはしない素振りで話を続ける。

「汐留さんなら、どこを最初に食べますか」

 質問の内容が意外だったのか、きょとんとした面差しでこちらを振り返った後、汐留さんは人差し指の腹を唇に当てて迷う仕草をわざとらしく見せた。
 そしてその指をそのまま斜め上へ移し、左目の下まぶたを引き下げ、その裏側と舌、二つの赤を見せつける。

「俺ならズバリ!目です!」
「目。眼球、ですか」
「はい!」
「理由を、聞いてもいいですか」
「聞いちゃいます?大崎さんそんなに俺に興味あるんだ~?」
「はい、とても」
「じゃあ教えてあげます!言っておきますけど、本ッ当〜に特別ですよ!感謝してくださいね、天と地と仏と杏ちゃん、そしてこの俺に!」
 
 一度ニヤリと悪そうな顔をしてから、自慢げに己の胸を拳で叩いて満面の笑みをこちらに向ける汐留さん。
 くるくる変わる彼の表情は、まるで今大江島で起きている惨劇とは他所の世界の、切り取られた喜劇の具現化のようだ。
 ……随分皮肉な話だと思う。汐留さんこそが、今この島に渦巻く狂気の性質に最も近しい存在であるというのに。
 
「まず口が寂しい時に飴のように転がせますし、歯応えが好きってのが物理的な理由ですね。でもそれだけじゃないです。最初に食べるなら目が良いなって考えるちゃんとした理由があるんです!
 俺たちが生きて、外界から情報を捉えたり……そもそも物を形として認識する際に使用する器官って目じゃないですか。写真を撮るのと似ています。音を聴き取る耳も勿論大事ですが、個人的には目の方に重きを置いちゃってます!
 これは俺の持論ですけど、人間の記憶が宿る肉塊は脳、心臓、そして目だと考えているんです。勿論、正しくは脳こそが記憶を司どる器官なんですが……でも食べるのにはあまりおすすめしません。いやまぁ俺は好き嫌いナシなのでいけちゃいますけど!
 それに食事をする前に両手を合わせて“いただきます!”と言う習慣があるでしょ?あれを聞くと俺、ああ、俺は今生命を食べてるんだ!って強く実感できるんですが、目の前にある“お食事“がお出しされるまでにソレが歩んだ歴史というものがあることを忘れちゃいけません。
 これは目に限った話じゃないです。肉や骨も、噛んだりしゃぶったりする度に、成長過程だったり、その人が何を見て育ったのか、どんな思い出を大事にしてきたのかなって想像してしまいます。彼らがこうなってしまう前に一体何を食って何を見て、何に感動しながら育ったのか!そういう裏事情ってやつにきちんと想いを馳せながら戴く、糧にする。すると俺とは全く異なる物の見方、異なる感性で生きていたはずのこの人たちが、何だかとっっても身近に感じられる……俺の傍にいてくれる、守護霊になってくれる、俺とひとつに融合しちゃう……?……あれ?何だか自分で言っててワケ分からなくなってきた……表現はちょっと違うかもですけど、つまりはそういう体であります!
 ま、わざわざあえて人を食べるなんて発想、よほどひっ迫した状況じゃないと浮かんできませんけど。まともな飯の方が味付けも多彩で美味いわけですし。
 ということで!俺だったら一番初めに口に入れるのはやっぱり目がいいなって思っています!以上!」

 ……いや、演説か?
 こちらが何か反応を示す隙もなく、矢継ぎ早に喋る汐留さんに終始圧倒された。
 途中で自分の興奮を制御できなくなって話を膨らませ過ぎているのも汐留さんらしい。前までの自分だったらうんざりしていただろうに、この数日間での心境の変化は一体何だ。
 ……自分こそ、汐留さん個人に対する己の気持ちをいまいち把握できていない気がするが、求める疑問の答えは得たから良しとしよう。 

「答えていただき、ありがとうございます。
 汐留さんが言いたいことは分かりました。要は第一に食感が汐留さんの好みと合致していること、そして本題である第二の理由、目に宿る記憶を……想いを食して血肉とすることによって、その方個人の概念を汐留さん自身の一部とし、孤独と不安を埋める手助けとしてきたのですね。」
「おおー……マジで?凄い、大崎さん探偵業で食えなくなったら俺専属の通訳さんでも目指しません?ハッ!それともコレ、探偵さんだから情報整理が上手いってだけの話です?」
「汐留さんのおかげで自分は、……、決めることにしました」
「決める?」
「越える一線として、自分は最初に、有明さんの目を頂戴しようと思います」

「本気で言ってます?おすすめした俺が言うのも何ですが、はじめてで目は結構しんどいんじゃないかなあ」
「覚悟の上です」
「どうして?俺これでも一応大崎さんのことを思って助言してるんですよ。最後には目も食うにしろ、まずは腕の筋とか初心者向けで慣らした方が絶対良いって」
「有明さんを救うことができなかった。自分への罰であり、有明さんという一人の方に対して出来る限りの敬意を表したいのです」
「けいい?」
「自分は有明さんがどのように生きてこられたのか、彼の素性を知りません。皆さんがよく自分たちの間柄を“昔からの親しい友人のようだ“と評していましたが、あんなにも近くにいた人なのに、何ひとつとして知らぬほど、遠い方だったのだと思います。これは自分が台場静馬の代理として参列したために誰とも親しくなるべきではないと、皆さんと一定の距離を取ろうとした報いでもあります。
 ……なので自分は、有明さんの目を戴くことによって、汐留さんの言う“有明さんの記憶“が宿るその部位を、自分の一部として……烙印として、この身に刻みたいと思っています」

「……。
 分かりました!大崎さんのはじめては有明さんの目ん玉で決まりですね。じゃあ俺が持ち歩いている匙を貸しちゃいます!……あっ、大崎さん自分でくり抜けます?一応これ遺体損壊になっちゃいますけど」
「……覚悟を決めたならば本来自分でやるべきだと理解はしています、ですが、どうしても……この手で“有明さん“を崩されるのは、耐えられそうにありません」
「はーい。じゃあ俺が掬いますね。有明さーん、ちくっとしますよー、痛くても我慢してくださいね〜」

 自分とは反対に緊張感のない声で汐留さんは“有明さん“の向きを変え、手に掴む匙をグッと押し込む。
 ……酷く生々しい、聞くに耐えない音が耳を汚した。

「綺麗にくり貫けました!このまま俺の手からあーんでもしてあげますか~?」

 汐留さんはにやにやと歯を見せながら、匙の上に載せた球体をこちらに見せつけてくる。
 直視しなければならない。向き合わねばならない。
 そう決意したにも関わらず、いざそれと対面してしまうとーー全身の血が引き、吐き気を堪えきれなくなる。
 右の掌で自分の口元を覆う。視界が不明瞭になり、尋常ではない頭痛と悪寒が身から噴き出し、全身の力が抜けた。
 自分のそんな様子を観察していた汐留さんは珍しく苦笑し、乗せた球体を落とさぬまま三本の指で匙を回し始める。これが目でなくラムネ玉か何かだったならば、大道芸か手品の一種だと勘違いしてしまうほど器用な指使いだった。

「やっぱり大崎さんには無理なんじゃないかなぁ。普段以上に目を離していたらころっと自分から死んじゃいそうなツラしてますもん」
「、平気……です」
「とか何とか言っちゃってー。窓ガラスか鏡でもあったなら見せつけてやりたいくらいに面白い顔してます」
「仏頂面の自分が、ですか」
「全然笑わないだけで、大崎さんは意外とちゃんと面白い顔をしていますよ〜。笑うことさえ出来れば悪い“人たらし“に違いない綺麗な顔です」
「……。汐留さん。自分はどうしても、食べねばならないのです。けれどこの頭も、体も、……理性が、自分の言うことを聞いてはくれない。どうか、汐留さんの知恵を、貸してはいただけませんか……」

 汐留さんは少しだけ考えるそぶりを見せた後、閃いたのだと見せつけるようにこちらに向けて指を鳴らした。

「あ!良い方法を思いつきましたよ大崎さん!俺天才です!」
「……何でしょう」
「飯屋でたまに小さな子供連れの片親がいるじゃないですか。そんで嫌いな物を出されて、いらない!食べたくない!って駄々こねてるクソガキに言うことを聞かせるため、渋々と親が提案するんです。
 お手本として自分も同じものを食べるから、一緒に口に入れて飲み込もうって!
 そういう感じで俺が一緒に大崎さんと食ってあげるってのは如何でしょう!」
 
 ……。
 つまり、それは……。

「大崎さんは食人という行いに強い抵抗感と罪悪感を抱いています。多分これこそが普通の感性なんだろうし、大崎さんはなーんにも悪くありません。
 だからせめて、気持ちだけでも半分こだと思い込むことにしませんか?大崎さんの罪の意識というクソ重すぎるお荷物を、ほんの少しだけ俺が肩代わりしてあげます!
 大崎さんが有明さんの片目を、そして俺がもう片方を戴くんです。いただきます、で一緒に口に運びましょう。どうです?天才的発想、まさに名案だと思いません?」
「……とても、汐留さんらしい考えだと、思います」
「ちなみにこの例え話、性根が悪い親だと自分は食べるふりのみをして、子供にだけ食わせるっていうオチ付きです。自分だって嫌いなくせに他人にはソレを強要するっていう超身勝手な企み。ありがた迷惑。習慣として植え付けてやろうと、無知で無力なガキンチョに少しずつ慣れさせようとするんです。
 ずる賢いっていうか、そういう子供じみた中身のまま成長しちゃった大人も少なからず居ますよね〜っていう俺の個人的意見です。感想です」

 この奇妙な例え話を鼻で笑う汐留さんの姿に、自分の観測眼は直感的な違和感を告げた。
 ……しかし、もし事実だとすれば惨たらしいこの可能性は、あくまで憶測の域を出ない。現時点ではただの自分の妄想に過ぎない。
 ……今深追いしてしまえば、汐留さんとの間に修復不可能な亀裂が走る予感がした。

「……匙は一本しかありません。どうされるおつもりですか」
「俺は素手で大丈夫ですー。掬う時だけ使いまーす。で、どうします?これが最終確認ですよ。やるかやらないかの二択しかありませんから。いますぐに決めてほしいです」
「……」
「ごー、にー、いーち、」
「お願い、します」
「よく言えました!俺、いい子な大崎さんのこと大好きです〜」

 汐留さんは自分の頭を片手で撫で回すと、匙に乗せていた球体をもう片方の掌に乗せ、“有明さん“から対となるそれを繰り抜いた。今度は挨拶も無く、とても手早く終わらせていた。

「本当は俺、有明さんの目を食べるつもりは全然無かったんです。有明さんは初めから俺のことを嫌ってました。俺の罪状を受け取っていたのが有明さんだったし、葬儀屋さんだから納得しか出来ないですけど……。これを食べちゃったらずっとずーっと、俺がえげつねー死に方でもしない限りお化けみたいにぴったり離れず着いてきちゃいそうで凄く怖いです」
「有明さんは優しい方です。そんな物騒なことはなさらないと思います」
「大崎さんには特別キャラメルみたいに甘くて、俺相手には特別、超〜〜〜ッ辛辣だったってだけの話じゃないですか!
 はあ……この目ん玉を食えば俺にも有明さんが憑いちゃうわけですが、それならそれで返り討ちにしてやって有明さんの思考回路を俺の色に洗脳してやろうと思います。俺すげー頑張ります!」
「有り得もしない可能性に労力を費やすことは得策ではないかと」
「うへー!大崎さん冷たすぎるよぉ……俺は大崎さんのために腹括ったのに〜……。
 じゃあせめて!有明さんが化けて出てきて、ま〜た俺にガミガミガミガミ説教してきたら、大崎さんは絶対に俺の味方をして!そのスゲー広い肩幅で俺をすっぽり隠して庇ってくださいね!ハイ約束!俺たち一蓮托生!」

 自分がいがみ合う有明さんと汐留さんの間に立つ……。
 ……。何て恐ろしい絵面だ。自分が仲裁するより、お互い酒を深く入れて殴り合った方が早いのではないだろうか。

 故人を偲ぶ会話にも、終わりは必ず訪れる。
 一瞬前までの喧騒が嘘であったかのようにしんと静寂が挟まれる。ここでは遠過ぎて聞こえぬはずの、浜辺に打ち寄せるあの静かな波の音を、十月の来訪を告げる秋風が運んできたような気さえした。
 汐留さんは左掌と右手に持つ匙にそれを乗せて、何も言わぬままじっとこちらを覗き込む。瞳孔に全てを吸い寄せるような丸い目で。
 ……自分の言葉を、待っているのだ。

「……食しましょうか」
「ですねー。くり貫いちゃった上にこのまま何もせず捨ててしまうなんて、それこそ有明さんに失礼ってやつです。有明さんが鬼のように怒っちゃったら大崎さんのせいですよ。こんなに待たせるなんて申し訳ないでしょー?」
「……本当に、その通りです。有明さん、……有明さん……」
「ほらほら、泣くのはまだ早いですよ。これを食べて、加えてもう少し腹を膨らませて、とりあえずは大丈夫ってなるまで我慢しなきゃ駄目です。大崎さんは“はじめてさん“なんだから、一度口にしたらあとは食事を終えるまで無心で貪るしかありません。多分ある程度食っちゃった後は正気に戻って吐くよりも先に失神すると思います。それで良いんです。赤ちゃんみたいにぐっすり眠って、今までに蓄積された疲れもすっかり癒して、目が覚めたその時に消化し終えた残骸を吐いて思いっきり泣けば良いんです。そうしないと今八重垣にいる方々のように“人“を繕うことすら出来なくなっちゃうから。
 ……ごめんなさーい。せめて熱を通してから渡せば良いんですけど、それだとふと自覚しちゃう時間が生まれちゃいます。絶対に考えちゃうと思います。だから生で食ってください。臭みは鼻をつまんで我慢して。病気になっちゃう可能性は……、……まあ、俺は今日までずっと大丈夫でしたから!島が守ってくれているという自信もありますし、俺のご利益も分けてあげます!
 知ってますか?かつて鬼と呼ばれたものの中には病魔を退散させる夜叉神として奉られた方だっているんです。この場限りではもう俺が実質そのありがた~いお方の化身だったってことで良くないですか?ね?ね?」

 向かい合わせに座る汐留さんが、匙の先を自分の口元に近づける。乗せられた”有明さん”と視線がぶつかった。彼は生前のように自分の顔を覗き込んでいる。有明さんはいつもそうだった。自分のような男に親しげに語りかける穏やかなお人だった。

「今夜のお食事には最大級の敬意を払いましょう!大丈夫、最初の一口目は俺があーんってしてあげます。味を感じ取ろうとしちゃダメです。匂いを嗅ぐのもダメ。詰まらせないようにちゃーんと噛んで無理矢理にでも飲み込むんです。先日水も確保できてたのが救いでしたね〜」

 ーー有明さん。
 自分はあなたを救うことができなかった。
 あなたの手を取ることもできたのでしょうが、それでも汐留さんの手を掴んだのは他でもないこの自分です。
 あなたになら祟られ、その細い指で締め殺されたとしても、筋の通った道理であると考えます。
 けれどどうか、自分と汐留さんが生きている間だけでも、その罰を見逃してはくださいませんか。
 あなたを突き放した自分にこのような頼み事をする資格はありません。ただの甘えでしかないと分かっています。
 それでも、自分は汐留さんの傍にあろうと決めたのです。
 もし優しい貴方を逆上させてしまっているならば、それは全て自分が悪かったという話です。汐留さんは関係ありません。
 
「いいですかー?無心になる、そんな矛盾極まりない心の準備、出来ましたー?」

 ーー今から自分は少しの間だけ、あなたのことを忘れます。
 あなただけじゃない、台場静馬も、新木場さんも、品川君も、祖母も、参列者たちも、汐留さんのことも。
 自分は人であろうとする今の己も、鬼である本性すらをも手放して、地獄に這う醜い餓鬼に変わります。

「あ!あーんってはしますけど、言葉にするのはそっちじゃないです。俺はこういう時にちゃーんと相応しい挨拶を選びます!それが合図です!上手く切り替えてくださいね!」

 自分の胃から、四肢の先に至る全ての肉に余すことなく。
 有明さん、どうか、どうか、
 あなたの痩せた真っ白な手で、その跡がくっきりと癒えぬほど強く、大罪人の烙印を押し付けて欲しいーー

「いきますよ!大崎さんの分まで俺が言いますからね!それでは!」

 パン!と両の掌を合わせたかのような軽快な幻聴が響いた途端に
 あんなにも大きかった汐留さんの声が、急速に自分の傍から遠ざかっていく
 なんて寒く、この世のものとは思えぬほど何も存在しない世界なのだろう?
 眠気が一層酷くなる ……ああ、もう、目を閉じる頃合いか
 肺に残る息を全て、一滴も、そう、一滴も残さず吐き切った
 ――行かねばならない 
 この血泥に染れた⬛⬛の底無し沼に自らの意思で横たわり、どんなに惨めで腐った肉塊と化してでも
 必ず、必ず這いずり上がって、汐留さんの下に帰ってくるのだ――……
 
 全ての自我が手放される直前に、
 サア、サア、と、
 この身にながれる穢れた血が したのせんたんまではしってゆく ただれるほどあつい おとがした
 
「多くのいのちと神様仏様大江島に感謝しまくって!」
「      !」



【了】

後書き(2025.08.30)

初出:2024年11月10日。

 体験版時点から汐留が気になっていた(というか本編を購入することを決めた理由がこのキャラだった)んですが、前編から後編まで間が空くことに耐えきれなくて執筆したもの。
 前編を読み返しつつ、1週間で勢いで書き上げました。
 大江島を火葬して踊る大崎さんと汐留の図が一番最初に降ってきた脳内映像で、この場面を目に見える形で残したくて小説の執筆を試みたという裏事情があります。
 二次創作小説復帰作かつ沢山の方から色々なお声をかけていただいたこともあり、とても思い出深い作品です。
実際の汐留ルートとは大分違う設定も含まれますが、それはもう目を瞑っていただけると……何卒……(なおこの小説内の捏造一覧や補足・解説はPixiv版の方に掲載されております。ご興味ありましたらそちらの方をどうぞ)

 素敵な挿絵はそれぞれ不明様、kakumaru様から当時いただいたものになります。個人サイトでの掲載の許可も快くご了承いただきました。重ねて心より感謝申し上げます。